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2011 DECEMBER

12/30 (SAT)

大晦日。未曾有の災害だのなんだのはいざ知らず。改めて言う。「本当にイヤな一年だった」と。

Facebook も Twitter も明らかにログインしている人が減っている。そりゃそうだろうな。皆、休暇だの年越しの準備だの帰省だのでオンラインになる必要もないのだろう。まあ今晩から明日にかけてはアケオメ的なツイートやウォール投稿があるんだろうな。やれ「おせち準備完了!」とか「○○神社にして祈願」とか、まあそのあたり。

ダラダラとした大晦日だ。何も特別なことはない。せいぜい実家のベランダを掃除したくらいか。あとは今晩のために年越し蕎麦を茹で、天ぷらをあげるくらいで、ガキの使いの笑ってはいけないスペシャルでも見ながら寝てしまうのだろう。

色々な人に助けてもらった一年でもあったが、それを素直に受け止められない自分が心底イヤだ。こんな気持ちでいると、本当に誰からも見捨てられてしまうと思うのに…。まあともかくやれることをやっていこう。

そういえば 3 日ほど風呂に入ってなかった。せめて今晩くらいは身を清めて新年に備えようか。皆様、どうぞ良いお年をお迎えください。

追記・誰一人としてあけおめメールもメッセージも何もない。自分から送らなきゃ、俺なんてこんなもんだ。(12/31)

12/26 (MON)

もういいか、という半ば逃げ、半ば決意を以て、Facebook の友人を整理した。Facebook ではこちらが友人属性を解除しても相手には通知がいかない。日頃から自身の友人数をきっちり把握している人でなければすぐには気付かないだろう。それはそれですごい仕様だ。まあ、気付いたとしても相手には大した痛痒もないだろう。ほんの少し感じるものがあったとしても、満ち足りた日常がある中では、すぐにそんなもの忘却の彼方へ追いやるだろうし、得てして人というのはそんなものだ。

今年もあと 6 日。1 週間後には新しい年がやってくる。丁度 1 年前はどんな日記を書いていたっけと読み返してみれば、今日の日付はなし。Xmas の別れという嫌な記事で終わっている。今年の 1 月 1 日には「過ぎた時が戻ることはないのだから、結果は結果として受け止め、悲しさや辛さ、孤独に立ち向かえる強さを持ちたい」などと書いているが、1 年経ってみれば結局そんなものは得ることができなかった。それも当然であろう。何か努力したわけでもないし…。

本当は友人の整理なんかしたくなかった。ただ、別に妬みや嫉みといった根深いものがあるわけではないけれど、投稿から垣間見える人様の幸せを見ていると、心に乾いた風が吹く。人々がどう、というわけではなくて、そんな風に感じてしまう自分の心根がイヤなのだ。そうした自分がイヤなクセに、やはり気になって暇さえあればつい、ブラウザを起ち上げてしまう。SNS がない時代であれば、どうしようもないこととして忘れてゆけるが現代ではそうもいかない。であれば、意図的にそうした関係を壊すしかない。ブロックや非表示ではダメなのである。世界に何十億人もいるというその他大勢と同じ属性まで持っていかねばならなかった。

いよいよ自分は本気でコミュニケーション障害者なんじゃないかという気がしてきた。誰かあ…。

12/25 (SUN)

隣の芝は夏の空のように青く、隣の花はフェラーリレッドの如く赤いのである。それはもう変えられない Kashi. の卑しさであろう。せめて子供たちが喜んでくれたかどうか、それくらいは知りたいサンタクロース。自分から聞かなきゃダメなのか…。

12/24 (SAT)

クリスマスイヴ。博愛と寛容の日。日中は Kashi. と同じようにプライベートで悩みを抱えている友人と気晴らしのおでかけ。天気はよく、滅多にないことだからと少し高級な店で昼食をとる。たまにこういう事があると救われる。

夕方前には友人と別れ、母親の病院へ。昨日今日と父親が忘年会や飲み屋のクリスマス パーティで不在のため、自分が行かねばならないのである。近所の輸入雑貨屋で購入したクリスマス用の小物をリースと一緒にプレゼント。ベッド脇のテーブルに飾ると笑顔を見せてくれた。本当はクリスマスくらい、自宅でゆっくり過ごさせてやりたいものだが、そうもいかぬ。せめてこれくらい…と、風呂にも入れずにフケだらけになった髪の毛を暖かいおしぼりで拭ってやり、櫛を入れてあげると心地よさそう。ずっと寝たきりの人特有の症状に足のむくみがあるが、母親も例に漏れず、しかもかなりひどい。OL さんが「今日、立ちっぱなしで足むくんじゃってー」というレベルではなく、変形が見て分かるし、2 まわりは大きくなっている。足の甲やスネなどを指で押すとボコリとヘコみ、時間をかけないと戻らない。これを片足 20 分以上かけてマッサージしてあげるのだが、これが結構腰にくる。だが、終わる頃には効果があり、ある程度はもとに戻ってくれる。一時的ではあるのだが、多少は楽になるのか、大抵この途中で寝てしまう。

母親は自分にしても父親にしても面会時間が終わり「じゃあ帰るよ」というととてもイヤな顔をする。気持ちはとてもよくわかるのだが、いつまでもいるわけにもいかないし、毎日少なくとも 1 時間半はいるわけで、これ以上いると自分の生活に差し障りが出てくる。なので申し訳ないと思いつつ、眠っている間に帰宅する…というのが常になってしまった。

見舞いが終わると、父親の車を借り、その足で所沢に向かう。もちろん用意したプレゼントをこっそり女房に渡すためである。女房が仕事から帰宅したばかりで夕食がまだとのことだったので、せっかくのイブならみんなでファミレスにでも…と誘ったが、下のチビは「ぼく、妖怪人間ベムが見たいし、終わったら寝たい」という。非常に頑なであり、この頑固さは誰に似たのだと思うが、考えてみたら自分なのかもしれない。しょうがないので、「じゃあ帰るよ」といいつつ、なんとなく雑談してみると、暖房器具が足りなくて寒いなどという。ストーブは居間にある一つだけ。コタツとホットカーペットで過ごしているという。「じゃ、ドンキホーテにでも行って石油ストーブ買うか。そのあと、ご飯買って帰ろう」と娘と女房を連れて駐車場にいくと、エンジンがかからない。バッテリー切れだ。しょうがないのでテクテク歩いて店に向かう。生憎とストーブは品切れだったが、風呂水を洗濯機にあげるポンプと、追い炊き出来ない風呂に入れると 5 時間くらい保温してくれるというエコ グッズが欲しいというので購入。他にもお菓子や乾物などを買ってやり、ココ壱番カレーでご飯。

帰り道、「サンタさん、今日は来てくれないのかなあ」と娘。「起きてる間は来てくれないよ。早く寝な。おやすみ」と別れ、しばらく経ってから父親の車に隠しておいたプレゼントを玄関前に隠し、その旨を女房にメール。ついでにガソリンスタンドに寄り、バッテリを購入して、自分の車に積んでおく。今度来た時に繋げれば良い。

1 年前は一人で荒れていたのだから、チェーン店で娘と食事できたのなら上出来かもしれない。だが、カー ラジオから流れる曲はクリスマス ソングと楽しそうなリスナーからのメール。ラジオを消し、何も考えないようにして帰宅。部屋に転がっていたワインを一息に空けて布団に潜ることにする。せめて今夜は夢など見ませんように。

12/21 (WED)

書籍を分解、スキャンして電子書籍化する「自炊」。これを業者が代行するのは「利用者と複製者が異なるため、指摘複製とはいえず法律違反である」と著名作家陣らが訴えを起こしている。Facebook を眺めていると、とある方がこの問題について触れており、その内容は「こういう訴えを出すなら代案としてきちんと電子出版を進めるべき​だと思う。なんかこういう人たちってズレてるんだよなぁ。」というものだった。

これに対するレスも総じて賛成派ばかりで、「音楽でもデジタル化に対する批判はあったが駆逐された、読み手のニーズを読まなければプロではない」とか「紙の本が衰退していくのは明らかなんでどうぞご自由にこだわれば」「アメリカの iTunes ストアではほぼ全種類の本が置いてあるのに日本ではまだ。だからみんな自炊。ただ金のことしか毛頭になさそうだから困る」と、自炊を認めないのは既得権にしがみつく老害、みたいな論調になっている。これらの意見、Kashi. 個人としては非常に乱暴に感じてしまう。

争点として「アメリカでは~」などと言い出すのは論外であろう。ここは日本だ、ということを理解できていない。文化も風土も違う。アメリカにおける書籍は、ペーパーバッグに代表されるように、雑な製本、質の悪い紙質が多く、本屋の中でイスに座り、コーヒーを飲みながら立ち (?) 読みができる。商品が汚れる可能性が高いにも関わらず、そうした行為を許容しているのは、本に対する拘りそのものがあまりないということの現われであろう (それが悪いと言っているのではない。考え方の違いだ)。物販も定価販売によって利益を出す日本と違い、小売りが独自のセールなどを行うビジネス モデルが確立している。広大な土地で書店へ買い物に行くのも一苦労、Amazon で注文しても配送は数日後となれば、その場ですぐ購入できる電子書籍化は有益なものだろう。だが、古い時代から書物というメディアに拘り、恐ろしく高品質な印刷技術を生み出し、同人誌という個人流通においてですら、高品質出版という形を取り続ける日本では電子書籍は作家、発信側にとってつまらぬものなのだ。

次にスレ主の「代案を用意して電子出版を進めるべき」というのも違う。そもそも今回の訴え、原告側の言っていることは電子出版の否定ではない。あくまで私的行為でしか許されていない複製を、利用者でない業者が利益目的で複製するのは間違っている、ということなのだ。これはニュース ソースでもそう報じられている。にも関わらず、これを「ズレている」と評すのは、スレ主の感覚がズレているといわざるをえない。

「金のことしか毛頭にない」というのもそれこそ金のことばかり言ってるのはそっちじゃないの?と思う。書籍なんて高いし、かさばる。もっと安くて手軽な電子出版にしろよ、ということだと思うが、この人は出版をボランティアや道楽か何かと勘違いしてるんじゃなかろうか。まあ毛頭の用法も意味も間違えているようなレベルであるから、この程度の批判しかできないのだろうなとちょっと気の毒にすら思える。ちなみにこの人は「超ー自炊してます」とも言っていた。そしてチャイニーズの方である (深読みはしないでいただきたい。ああ、著作権なんぞはガン無視、自己の利益を最優先し、そのためにはドブから食用油作ったり、山肌をペンキで緑色にしたり、他国の領海で堂々と密漁したりするあの国か、という単なる感想だ)。

Kashi. は電子書籍そのものは意義のある出版形態であると思っている。通勤の暇つぶしとして読み捨てられ、古本として括られ、ゴミになる確率が高い週刊誌などは電子出版のほうがエコである。検索が面倒なアルバイト情報誌や、書籍として溜め込むことが困難なエロ本にもメリットは大きい。また長期入院して自由が効かなかったり、離島のように流通に難がある場所などにも活用例は見出せる。

しかしだ。電子書籍はメリットよりも遥かに大きい問題を解決できていない。それが不正コピーの問題だ。正規の電子出版で特定のデバイス内でしか読めないといったものであればまだいい。しかし ジュエル ブレイクしたiPhone やルート権限を引っこ抜いた Android であれば、そうしたデータも不正コピーが可能だ。ましてや単にスキャンし PDF 化しただけの自炊データなどは著作者の権利を著しく侵害する可能性が高い。そして事実、P2P ソフトウェアなどでは自炊データが大量に流通している。作家側にしてみればたまったものではなかろう。かつて Adobe は「不正コピーを利用する人間はそもそも当社の顧客にはなり得なかった」として、対策を施しつつも放置する考え方を見せた。しかし、特殊なスキルを必要とするアプリケーションと違い、書籍はニッチであるとはいえないから不正コピーされた時の損失が大きい。

そうした著作権者の不利益を著作権者が守らなければいけないというのはおかしなことである (自分の身は自分で守らなければという考え方もあるが、ここではモラルの話なので)。出版側にとってみれば、これまでの形態でなんの問題もないのだ。今、電子出版を進めているのは、そうしないと買ってくれない層がいたり、時流に乗らざるをえないからそうしているだけであって、本来であれば利益が薄くなり、手間もかかる電子化に賛成する理由はないのである。電子書籍化しろと迫るのであれば、著作者のデメリットを駆逐し、これまでと同等の利益を保証してやらねば、クリエイターたちは納得できるものではなかろう。単に便利なのにとか安いのに、という理由で電子書籍化しない状況を「彼らはズレてる」というのなら、それはとんだ了見違いである。

今は単なる利用者であるからそんなことが言えるのだろう。モノを売るというのは道楽ではないのである。生業だ。それで食べているのである。今、自分がやっている商売が簡単にコピーされ、本来金を取るべきサービスを無料で配信されながら「ユーザーにとっては安いほうがいいし、どうせ同じサービスなんだからいいじゃん」と言われた時にも「そうだよね、その通りだ」と言えるなら、大いに冒頭のような意見を流せばいいと思う。しかしそうではあるまい。

ここからは私見であり、なんの根拠もない。それをお断りした上で記してみると、個人的に電子書籍や自炊を推すタイプの人というのは、思慮が足らず、想像力が欠如し、何事においても短絡的であるように思う。書籍を読むということについても、それを何度も読み返すようなことはしないのではなかろうか。例え読了したとしても、そこに描かれている上っ面だけを拾い読みし、気にいったところだけを、あたかも自分の言葉のように引用し、ツイートしたりする印象だ。

あまりにも偏見かもしれない。が、なんでもかんでも iPhone に依存し、コンビニエンスに物事を済ませるようになると、思考が停止していくと思う。情報収集というのはたくさんのツイートを拾うことでも、サイトのビジネス コラムを読み漁ることでもない。そうして得たものも確かに情報だ。しかし質は低いということを理解した上で発信しないと、本人の質まで下げることになる。

手間がかからないというのは、これが怖いのである。不便であることが良いとは思わないが、クオリティというのものは、ある程度のプロセスやステップを踏むことで向上するものだしオリジナリティが出る。スマホの台頭と低価格でのインフラ無制限利用は、こうしたカオスを生み出してしまった。今の twitter、ブログはどれを見ても金太郎飴である。気軽な日常会話や、雑談もいいだろう。それを時間や場所を越えて行なえるようになったのは良いことだ。だが、知らず知らずにそれに依存する人々がどんどん増え、情報の質が下がっている気がしてならない。

電子書籍の話から、えらく飛躍してしまった。情報の質がどうのこうの言いながらこの体たらくでは汗顔の至りといったところだが、とどのつまり言いたいことは「手抜きをするな」ということである。本を読むにしても、店や図書館まで足を運び、印刷精度や、装丁のこだわり、帯のキャッチコピーや出版時期など見て、その本が有益かどうかを、文章以外のところで嗅ぎ取りながら判断していく。足を運ぶからこそ、いいものを選ぶぞ、という意識も働く。書籍に限らず、デジタル化は、こうした感覚を鈍らせるキケンもあるのだということを言いたい。

人はもっと苦労すべきだ。苦労というのは嫌なことをやれ、という意味ではない。ゴールに至るという目標があるならそれを一足飛びにするようなことでは実力がつかないし、その場しのぎでしかない。それは目先の利益追求という刹那的なものだし、培った経験がモノをいうことが多い人生ではいざという時に何もできなくなる。それでも別にいーじゃん、というなら、もうモノの考え方が決定的に違うだけだから、何も言うまい。こちらが古臭いだけかもしれないしね。

12/08 (THU)

立川談志にしろ、スティーブ・ジョブズにしろ、適切な治療をすれば間違いなくまだまだ生きられたはず。自分の信条を貫くのも生き方のひとつだろう。しかし、特定の世界で頂点に立つほどの立場であるならば、その影響も考えなければいけないと思ってしまうのは自分が凡人だからだろうか。

12/08 (THU)

クライアントである M 社の某部署合同忘年会に招かれ、図々しくも参加する。皆さん、とても良い人たちでしごく楽しいひとときを過ごせたのだが、それと同時に思い知ったのは、どう頑張ったところでこの人たちには絶対叶わないのだなという諦観。なんの偶然か、Kashi. と同じ 1972 年が出席者の大半を占めていたのだが、その人たちと比べると、自分のなんと幼稚なことか。仕事に対するクオリティ、レベル、そして経済的な面や人徳など。自分がこんな席に招かれていいものだろうかと宴の途中で逃げ出したくなったものだ。

こうした人々が目の前にいるのでは自分など無価値だ。皆、人徳があり、優しく穏やかで人当たりも良い。誰もが誰もを慕っており、信頼関係が伺える。Kashi. はただ「あはは」と話を合わせて笑うことしかできなかった。自分はなんて矮小で、役立たずなのだろう。彼らが一回に動かす金額と高品質の仕事に比べ、自分のそれは児戯に等しい。

…と、今は思う。今はね。ただまあ、こんな考え方をしているうちはどうやったって超えられない壁。

12/01 (THU)

師走である。なんとも早く、なんとも長い 1 年だった。毎年毎年日々が過ぎる速度は加速度を増しており、古人の言う光陰矢のごとしが実感として感じられる。この調子では、70 歳くらいになった時には 1 週間くらいで 1 年が終わってしまうのではなかろうか。恐ろしい限りだ。

色々とイヤなことの多い一年であった。しかし、今 Kashi. は数えで 40 歳である。来年からは前厄、本厄、後厄が控えており、こんな 1 年だったのに、更にひどくなるのかと思うと戦々恐々の思いだ。ここから先なお悪くなるというと一体どんな凶事や災厄があるのだろう。失業、天災、身内の死といったところが想像できるが、冗談ではない。自分はもうちょっと張り合いを持ちたいのである。

時に「そんなに自分は不幸であったか?」と思うこともある。確かに順風ではないが、それは Kashi. 自身の考え方であって、冷静になってみれば、世の中ではよくある話じゃん、といったレベルでもある。愛する人との別れだの、親の病気だの、経済面の不安だの、怪我だのと。たまたまそういった事がドカンと来たからツイてねえ!と思うわけだが、震災や原発レベルで苦労をしている人たちからすれば笑わせんな!と言われそうだ。彼らにしてみれば麻雀で天和、四暗刻、大三元のトリプル役満を喰らったほどの不幸であり、こちらの不幸などは立直一発程度ではなかろうか。

要はどうにもならない災厄や人災以外、幸不幸なんてものは自分自身の感じ方次第なのである。ハタから見れば「あの人は金もなくて連れ合いもいなくて可哀想」だとしても、当人が「背負う物もなくて実に毎日が気楽」と考えれば、その人にとっての日常は幸せである。ここまで言ってしまうと極論だと思うが、物事は表裏一体であり、捉え方次第でどうにでもなる。

わかっているのだけれどね。

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