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2011 SEPTEMBER

9/30 (FRI)

たまに今の自分は分裂症か何かじゃなかろうかと不安になってしまう。なんというか自己愛をコントロールできず、他人に対しての期待値や思いが濃すぎて、自家中毒を起こしているように思えてしまう。躁鬱が寄せては返す波のようになっており、こんな風にクレバーに自分を客観視できる夜もあれば、あらゆることから目や耳を塞ぎたくなる昼間もある。正直しんどいわけだが、どうしたものやら。何が満たされれば、自分は充実するのか。

今は、本当に色々と余裕がなく、ワケもなく怒りが浮かんできたりする。そのまま怒りっぱなしになりながら暴れられればいいのだろうけど、そこまで吹っ切れることもなく。そうした状態はそれはそれでもうしょうがないと思うしかないのだけれど、それと同時に、「何かやれそう」な気もするのだよなあ。そういう時、思いついたらなんでもやってみるのが良いと思うのだけれど、懐具合と、やっぱりまだまだ不自由な右腕が邪魔をする。

人は今までの経験や知識で解決できない問題や状態が長く続くとメランコリックになって鬱になると聞くが、その波打ち際にいるのかもしれない。とりあえず、充実していた時代を思い出し、その頃は何故満たされていたと感じたのかを考察してみると良いのかもしれない。今、これだけ物事に自信がなく、自己評価も低いというのは、ちょっとおかしい。うーん…。

9/29 (THU)

おっと、いけないいけない。人の多いところに行くときは注意しなきゃいけない。余計なことを考えないように。自分はもうただの下請けだ。分というものを弁えなきゃね。目を瞑りながら電車の中で。

9/26 (MON)

田中麗奈と言えば、1998 年、なっちゃんの CM で全国デビューし、その凛とした端正な顔立ちと演技で一躍銀幕のスタアとなった女優である。18 歳でデビューした彼女、一時はおかなしなプロモーションでやたらとケバケバしくなったが、今は軌道修正され、相も変わらず美しく可愛らしい。

その田中麗奈が 19 歳の時に初の写真集を出し、ヲタの間では有名な銀座福家書店で写真集発売記念握手会を刊行したのが 12 年前の夏。瞬殺とも言える超高速握手会であったが、そこで初対面となったのが、M 氏である。M 氏は当時はまだ珍しかった独自ドメインを取得し、多くの田中麗奈ファンがそのサイトにたむろしたものだ。

そんな M 氏、直接会う機会はめっきり減ってしまったが、この季節になると郷里から届けられたスダチをお裾分けしてくれる。今年もまた連絡をいただき、それが今日届いた。まだ青く固い実から立ち上る清涼な香りは、曇った心を晴らしてくれる愛らしさだ。実にありがたいことであり、本当に嬉しい。ぜひ御礼を…と思うが、なかなか叶わぬ。できれば直接お会いして無沙汰を詫びながら杯を酌み交わしたいものだ。M さん、これを読んでいたら期待せずにお待ちください。

さていただいたスダチ。M 氏曰く「うどんにたっぷりかけて食べると美味しいですよ」とのこと。もちろんこれも試させてもらうが、やはりまずは秋刀魚であろう。焼きたての脂がとろける身にたっぷりと絞ったその味はたまらないものがある。さらに美味いなと思うのは、シイタケの茎を取り、ヒダの部分に塩をひとつまみして焼く。シイタケから出てくる水分で塩が潮解したころが食べ時だ。そこにスダチを絞って酒を呑む。これは素晴らしい風味で、もう本当に日本人で良かったと思えるのだ。今日はその両方を堪能させていただいた。スダチはまだまだ残っている。明日はどうやって食べようか。しばらくは夕食がささやかな楽しみとなりそうだ。

9/24 (SAT)

なんとなく見た夢がちょっと重たくしんどい内容だった。そんな深層心理を持つ自分に嫌悪しつつも、その勢いで日記を書く。

世の中には我儘で自分勝手、人のことを考えない、世の中のルールをあまり気にせず、論理より直観を重要視し、奔放に振る舞い、人を振り回す。だが、それがカッコイイとして、カリスマになってしまう人がいる。スティーブ・ジョブズなど、その良い例であろう。違法装置を作って売りさばこうと欲をかいては銃で脅され、ドラッグに溺れ、就職先のオフィスを長髪と裸足でうろつき、宗教に目覚めてインドを放浪し、友人の賃金を数千ドルもピンハネし、自分の子供の認知もせずに、人のアイディアを自分のもののように語っては、気に入らない社員はエレベーターで「ジョブズ」する。知れば知るほど最悪だ。

身近にいる普通の人間からすれば、大迷惑以外の何者でもない、そんな人物であろう。彼は感性を第一に生きていた。往々にしてこのテの人物というのは、人の痛みを理解しない。自分の感じるところが行動原理であって、例えそれが法に抵触するようなものだろうが、倫理的に許されないものだろうが関係がない。そうして自分の周囲から人が去っていくことになったとしても、彼のような思考の持ち主は気にしない。去っていく人を馬鹿にし、自分のせいで去っていったというのに、そこに怒りを感じる。そこに相手への思いやりはなく、あくまで主観のみだ。

もちろんこのような人物像や背景は Kashi. の憶測にすぎない。直接 SJ と会って話したわけでもない。だが、Kashi. にはそのように感じてしまう。人間なのだから、時に激しいやり取りをすることがあってもいいだろう。それは自然なことだし、そうした経験のない人生のほうが恐ろしい。だが、一方的に相手を罵り、自分と同等の考え方や能力を持たぬものを排斥していくようなやり方は不遜だし、優しさがない。そこにあるものは相手を理解しようとする感情の昂ぶりからきた激しさではなく、相手を服従させようとする驕りであるように感じられる。本当かどうかは知らないが、SJ は自社に面接に来たエンジニアに対して「Are you virgin?」と尋ねたそうだ。それに対してエンジニアがどんな答えを出したとしても、SJ を満足させることは出来なかっただろう。君は童貞か?と発した時点で SJ の興味はゼロになっていたのだ。だが、それならそれで面接を打ち切ればいい。相手に辱めを与え、敗北感を与える必要はない。SJ は SJ なりに感じたエンジニアへの感想を口にしただけかもしれない。だが、それは著しく社会性を欠いた行為だ。

SJ は未来ある学生へのスピーチでこう言った。

「君たちの時間は限られている。だから、誰かの人生を生きることで時間を無駄にしてはいけない。独断的な意見に惑わされ、誰かの思い通りに生きて行ってはいけない。誰かの意見に自分自身の声をかき消されてはいけない。そして最も重要なことは、自分の心と直観を信じて突き進む勇気を持つ事だ。心と直観はなぜだか、君が本当になりたいものをすでによくわかっているものだ。それ以外のことは全て二の次でいい。」

言っていることは間違っていないと思う。一句一句、心を揺さぶられるものだし、力強く、そこから感じる信念は揺るぎない。だが、これだけをそのままの意味で捉えることはとても危険だ。SJ はここにもう一言を付け加えて欲しかった。「そのために人を悲しませてはいけない。そしてその信念が他人の幸せに繋がるものであればなお良い」と。ジョブズの言葉の表面だけをなぞって勘違いする人が出ないことを祈るばかりだ。

人それぞれ哲学があるだろう。誰もそれを侵すことはできない。だが、誰もが平和を望むように、楽しい気持ちで日々を過ごしたいと思うはずだ。嫌な隣人がいたとしても、その隣人だって好き好んで争いたがるということでもなかろう (中にはそうした人間もいるかもしれないが、それは司法の出番である)。他人とのコミュニケーションを嫌い、思いやりを無くすようなことはして欲しくない。そうした前提があってこそ、初めてジョブズの言葉は輝きを放つのではなかろうか。

…などと、偉そうなことを言いながら、人とのコミュニケーションでことごとく失敗してきた Kashi. だ。人生折り返しとなる今、偉大なる IT の先達、ジョブズ。そのカリスマ性だけに惑わされず、そこにある本質を見定めながら自分の人生に活かしてみたいと思う。

(追記) 個人的に、ジョブズの最も有名であると思われるこのスピーチは、迷いを感じている人にとっては勇気を与えてくれるものであると思う。ただ、誰かの人生を生きることで時間を無駄にしてはいけない、という部分。これは訳として適切かどうか疑問だ。ここは「他人がすでにやってきた人生をなぞるような時間の使い方はもったいない。君だけにしか出来ないオリジナリティある人生を過ごすことが有意義なのだ」というニュアンスなのではなかろうか。ぜひそうであって欲しいのだが…。やはり英語を勉強しよう、うん。

9/20 (TUE)

台風が本気になってきた。朝からさっぱりしない天気。土砂ダム決壊による被害がないと良いのだけれど。

T 女史に「頑固者だなと感じる」と評される。「間口は広いように思えるのに、入り込んでみると思っていた以上に狭くなる」のだそうな。今回は、現在の Kashi. の一連の状況について、ある程度把握してもらった上での会話なので、嫌味でなく、アドバイスであるということは十分に解っている相手なのだが、それでもやっぱり女性はそう感じるんだなという感じであり、グサリと遠慮無く胸を刺されたような気持ちになる。

彼女は「自分自身もそうだから、敢えて最初から間口を狭くしてしまい、その上で許してくれる人、理解してくれる人をパートナーにしているし、相手とも誤解のない関係構築のためにお互い努力していくようにしている」という。だから「Kashi. もそうした努力を怠らず、相手もまたそうした人が best partner なのでは…」とのことだ。T 女史に対する男性人気は総じて高く、少なくとも自分の周囲で氏を嫌いだという人を見たことがない。なるほど、人気者は余裕のあることを言う。自分は全然努力が足りていないらしい。

生まれついての頑固者である。時には人に古臭い価値観と言われ、呆れられ、怒りを買ってきた。だが、分かり合い、分かち合うということ。それを求めぬ人がいるのだろうか。Kashi. だって同じだ。お互いに分かり合いたいと思うし、好きな人のために努力したり、相手が笑ってくれたり、喜んでくれることは、自分にとっても喜びでもある。だが、ひとつのことにのめり込みすぎるが故に、視野狭窄になりがちな上、不器用で学習能力が欠如している。察するとか空気を読むということも苦手だ。思っていることがすぐ顔に出てしまう。これは確かに欠点なのかもしれない。

だからこそ女房にも「嫌なことがあったらなんでも口に出して言って欲しい」と言ってきたし、その他の人にも「俺が間違っていることをしていたら、注意してほしい。それが自分にとってはとても有り難い」と伝えてきた。そして出来るだけ、指摘されたことを治すように注意してきたつもりだ。だが女性からみれば、それは独り善がりな考えであったのだろう。

そんなに甘えているんだろうか。こんな風にあれやこれやと考えることすら傲慢で図々しいのではないだろうか。そう考えると、心底自分が無能の塊のようで嫌になる。世の中にはとてもジェントルで、ナチュラルに女性を気遣い、意識せずに相手を思いやって、一緒にいることで安心感を与えられる男性が数多くいる。自分はそうではないのだという情けなさ。

まだ距離感がある間の付き合いは問題ない。だが、「本当はこういう人だったの」という評価になるのが一番辛い。そんなつもりはまったくないし、緊張が解けただけなのに。自分はそこまで仮面を被っていたのだろうかと愕然としてしまう。親しき仲にも礼儀あり、という格言をそんなに自分は実践できていないのだろうか。そんなに人を不愉快にさせてしまうことばかりなんだろうか。

理屈っぽく、口うるさい。自分としては物の道理を説いているつもりでも、それが下手くそなのか、人には屁理屈と詭弁に聞こえ、自分をやり込めようとしていると感じるらしい。相手に分かって貰いたいと思うから、なお弁を振るえば耳を塞がれてしまう。こちらがどう思っていようが、相手がそうなってしまえば、それは失敗だ。そして「イヤな奴」という評価だけが残ってしまう。そこまで解っているのであれば、相手に解って貰えるようなやり方にすればいいじゃないかということなのだが、そうした臨機応変な対応が出来ない。どうすればそうしたことが出来るのだろう。どうやったら自分をうまくコントロール出来るのだろうと、アレコレ本を読んでみたり、方法論を模索したり、そればかり考える。そして上手く出来ずに落ち込んでしまう。相手の話を遮らず、まずはすべて聞いてあげ、言い返したり批判したりせず、柔らかく思いを伝えるだけで良いのに。四十にもなって、そうしたことができない。甚だガキ臭い葛藤に、まわりの男性がすごく価値あるものに見えて、自分を無価値なものだと卑下してしまう。

そんな日々にも、もう疲れてきた。一人でいれば人間関係に煩わしさを感じることもない。孤独感は深い闇に沈めてしまえばいいだろう。深い心の交流など求めず、仕事にしても、ちょっとした雑用にしても、余計なことを話さず、適当なところで切り上げて、そうですねと話を聞き、相手のリクエストにだけニコニコ応えていれば、「あの人はいい人」と当たり障り無く評価して貰える。最近はそれでいいとすら思うようになってきてしまった。あまりにも典型的なダメ人間思考で 2 ちゃんねるを見ているかのようだが、虚無感を薙ぎ払い、自分を奮い立たせるだけのモチベーションが今の自分にはない。

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女房にもたまに言われた。「わかってるなら治せばいいのに」。治さなかったんじゃない。意識してみても人が望むような結果は出せなかった。自分なりに頑張ってみたけれど、それでも人は足りないという。もっと努力しなよ、分かって貰いたいなら、それじゃダメだよという。だが、それが自分という人間だ。

冒頭の T 女史は「男性は格好つけの傾向が高いので、その間口の狭さに女性は嫌気がさす」という。「だから相手に己の度量を見せることが重要だし、思っていることは素直に相手に伝えて誤解のない関係を築くのが大切」なのだという。へえー…という感じ。ここで不思議に思うのは、「じゃあ何故男性はそういうものだとわかっているのに、女性はそれを理解してくれないの?」ということだ。

女性優位が前提であるかのような理論であり、それができない自分はまるで罪人扱いだ。誤解のない関係を築こうと本音をぶつければ疎ましがられる。とことんまでやりあえれば納得もいく。だが、女性はそうしたものを「もういいよ」と放棄するではないか。事実、T 女史も、自分から振ってきた話題にも関わらず、数回のやり取りの後、返答を寄越さなくなった。極力言葉を選び、相手が誤解していると思える部分は訂正しつつ、自分の思いを伝えたつもりだ。だがしかし、所詮そんなものであろう。何がわかり合える関係だ、と不愉快になる。もっともこの女性は単なる知人で、色恋の関係というわけではないから、そこまでの期待もないのだが。

自分はきっといつまでもこのまま「治らない」だろう。
いつだって人には優しくありたいと思っていたのだけれど。
女性に限らず、人に尽くすことが好きで、報酬など無くても、ありがとうの一言で報われ、また頑張ろうと思えてきた。
だが、自分の欠点は大きすぎて、そうした気持ちなんぞ、なんの役にも立たないようだ。
それが苦しくて、辛くて感情が爆発すれば、それで三行半を突きつけられる。そんなコミュニケーション下手な人生。

好きな人に解って貰えないことほど、辛いことはない。
だったら今はもう、人を好きになることも、解ってくれる人が現われることにも期待しない。
そんな心境になる 1 日だった。

9/13 (TUE)

用事のために自転車で外出した帰り道、前方に小型犬を連れた婦人を発見する。携帯を見ながら歩いているその姿と、あまり落ち着きのない犬に胸騒ぎがしたので、スピードを落とし、出来るだけ距離を取って追い越しかけたその時、案の定犬がこちらを意識してダッシュ。急ブレーキが間に合ったが、予測していなかったら、またぞろ転倒し再入院の憂き目に遭うところだった。今回は危うく危険を回避できたが、早くからベルを鳴らすなどして注意を促すべきだったと反省する。が、今回それはそれとして、のお話。

Kashi. 犬が好きだ。だが、愛犬家には世の中には犬が怖いという人もいることを本当に真剣に理解してもらいたい。「うちのコは逃げないから」とノーリード (もしくはそれに等しい状態。投擲競技の飛距離を計測できそうな長いリードも同じだ) にすることはやめて欲しい。逃げないかもしれないが、追いかけるかもしれないではないか。小型犬ですら牙をむけば子供くらい噛み殺せる。愛犬がそうした事故を起こしてしまった時の悲劇を想像してほしい。犬にはなんの罪もない。そして、何かの弾みで愛犬が車などにはねられてしまったら、法律はそれを保護してくれない。基本的には物損事故としてしか扱われないことを知ってもらいたい。どんなに「家族同様なのに!」と訴えたところで犬は人と等しく扱われないし、そう感じるのは犬を飼っている側だけの感情だ。犬がいない人間から見れば、四つ足で尾があり、ワンと鳴く生き物は親兄弟親類縁者に存在しない。「あんたが腹を痛めて産んだとでもいうのかよ?」と感じるものなのである。

人にとって大切な情操を磨き、命の在り方を考えさせてくれ、共に生きることで感動も与えてくれる。もちろん猫やその他の動物だとしてもそうした面を持つが、犬は殊更にそうした手応えを感じさせてくれる希有な動物ではなかろうか。主人に傅き、主人のために働くことを喜びとして生きることのできる犬は、人と相互協力ができる素晴らしいパートナーだ。数多くの職業犬がそれを示してくれている。

犬が好きだからこそ、厳しく守るべきことがある。それが自分と愛犬を守るたった一つの方法ではなかろうか。当たり前のことを守り、かけがえのない素晴らしい日々を過ごしてもらいたいと思う。飼いたくても飼えない人間からのささやかなお願いだ。

9/12 (MON)

それなりに忙しい…はずなのだが、なんというか仕事の進みは非常に遅々としている。これは本当にいけない事なのだが、どうにもハリというかそんなものがないのである。だが、進めねばならない。満腹になってしまったのにオカズが残っている時のように、少しずつ少しずつ咀嚼するしかあるまい。

数分後、その決意はもろくも崩れ去る。昼食時、父親が「換気扇掃除しないとなあ」と言いだしたのだ。数日前、すっかり汚れてしまったレンジカバー (ガスコンロの回りにまくアルミ製のついたてみたいなやつ) を見て、父親が交換品を買ってきたのだが、それだけを取り替えるのはなんとも中途半端。そこを変えるならレンジ周りを掃除しないといけないし、そこを掃除するなら、換気扇も掃除しなきゃさ、という流れ。そりゃまあもっともだ。

これは本当にいけない事なのだが、自分も乗り気になってしまう。逃避行動だぞと右肩で叫ぶ天使に猿ぐつわを噛ませてレンジフードを見てみると、2 箇所を蝶ネジで止めてあるだけ。なんだ余裕ではないかと外してしまったのだが、外してしまったらもう後戻りはできない。嬉々として決意を固め、大きさもあるので玄関前で洗うことにする。洗剤を用意し、ウェス (ボロきれ) を取りに部屋に戻ると、父親はすでに換気扇ユニットの取り外しにかかっていた。「ああ、ゴム手袋はそこだ」と業務用の使い捨てシリコン手袋まで備え、準備万端。なんとぬかりのないことよ。

その後は約 2 時間の力仕事。大変に疲れる。何せ母親が倒れてからというもの、4 年以上掃除されていなかった換気扇である。ニューウェイブ系ラーメン屋の店主並に頑固な油汚れがごっちりとこびり付き、落とすのが容易ではない。ヘラと古歯ブラシを駆使してひたすら磨く。自分の心に鬱積した汚れと思いながら、こんちくしょうと延々磨く。まだまだ残暑は厳しく汗だく。もう面倒なので上半身裸になってこれでもかと磨く。これはこれで気持ちが良いものだ。

ある程度終わったところで喉の渇きを潤すために台所に戻ると、父親も同じように T シャツの色を変えながら壁を磨いていた。これは本当に間抜けなことなのだが、自分は右肘、父親は右膝がまだ治っていないのだ。力を入れて磨けぬ息子と、高い位置にある壁を磨くのに足のふんばりが効かない父親。明らかな采配ミスだが、この段階では完全に手遅れ。普段は弱音など吐くことのない父親だが、「もう体力の限界だ」と引退するスポーツ選手のようなことを言い出す。これは一大事だ。減量苦に耐えかねて水を欲しがる力石を諭す葉子お嬢さんのような気持ちで、父親にお茶を差し出し激励する。

なんとかかんとか磨きが終わり、ラストスパート。取り外したユニットやフードを次々と取り付けていく。体力勝負のこういう時は心が折れてはいけない。マラソンと同じで立ち止まったら終わりなのである。オノレコノヤロウと締まりの悪いネジを文字通りねじ込んで作業終了。大変に疲れたが、甲斐はあった。取り付け後、電源を入れた換気扇とレンジ周りは新品のようにスムーズだ。ユニットの製品タグには 1987 年製とあったが、とてもそうは見えない。一度やり始めたらとことんやってしまう親子の性格の勝利であろう。ふと目をやるとレンジ周りの隙間が気になるところ。「確かアルミテープがあったはずだが」と父親。「それなら俺が持ってるよ」と息子。普通の親子はそれぞれでアルミテープを所有していたりするものなんだろうか。この家に無いものは世界になく、世界にないものはこの家にも無い。そんな思いを抱えながら、きっちりと目張りをして完了。大変に清々しい。

さてこの勢いで仕事も同じようにやっつけよう。と、思う側から無理であることに気付く。これは本当に大切なことなのだが、仕事とはえてしてそうしたものなのだ。世の中のバランスはなかなか上手く出来ている。

9/9 (FRI)

ソーシャル メディアについて。
twitter、Facebook が Windows Phone の People Hub で標準管理された。MS はこの 2 つのサービスを現時点で最重要な SNS と位置づけたからであろう。だが、世の中には他にも多くの SNS がある。tumblr、flickr、yfrog、foursquare といったものを活用している人も多い。現時点で炎上中の pixiv もそうだし、iPhone ユーザーであれば、Instagram あたりはもはや定番だ (人と人とのやり取りという観点を突き詰めれば 2 ちゃんねるも立派な SNS とも言えるが…)。それぞれ特色あるサービスを出してはいるが、これらのサービスをフル活用して、常に何かしらを発信している人というのはどういった人たちなのかなと、時々考えてしまう。

SNS というサービスの特性上、何かを発信すればどうしても個人のプライベートに触れざるを得ない時がある。それらは post 時にはあまり意識していなくとも、チリも積もればなんとやらというもので、その人の行動範囲や人間関係などが見えてきてしまう。これは結構怖いことだと思うのだが、どうだろうか。

世の中は善意だけで成り立っているわけではない。かつて (今もあるのかは知らない) twitter で相手に知られないようにフォローするための TwitterStalk といったアドオンがあった。こうしたツールを使わずとも twitter でのこっそりフォローなんてのは簡単で、公式の機能をちょっと活用すれば出来てしまうのだ (今のところ改変される気配はない)。いずれにしても、時にはこうした方法論に需要があるということの意味を考えながら情報発信するのが良いと思う。

過去の人間関係で精算したはずの人物からはフォローされないよう、分かりにくい名前にしても、心理としてメインで利用するものはどこかで推察出来るようなワードを入れるものだし、本人がそうしたところで付き合っている人間がわかっていれば、そちら側からアプローチして探し当てることもできる。勘と根気の問題であって、Kashi. は検証という意味での興味本位から、かつての知り合いなどを探索してみたが、容易とは言わないまでもある程度時間をかけることで、数人は発掘できてしまった。もっとも今のその人たちの日常や人間関係に興味があるわけではないから、それでおしまいにしているが、それが目的である人物にとってみれば、SNS は情報の宝庫だ。

位置情報共有サービスも微妙なところだ。Facebook のスポット、Twitter の位置情報連動 tweet、Foursquare のバッジ。「今、ここにいるよ!」とアピールすることは、仲間に対して「ああ、ここにいるんだ。自分も行ってみようかな」とか、「へえ、こんな料理が出るんだ。私も今度行きたい」と思わせるなら有益といえる。しかし、「あいつはここにいるのか…」とナイフを持つ人間がいないとは言い切れまい。「この人しょっちゅうこの時間帯にここにいるみたいけど、別のあの人もちょこちょこ同じ店の写真を同じ時間帯にウォールにアップしてるよね?二人って付き合ってるの?」と邪推されることもあるかもしれない。

flickr や Instagram で撮影した写真に個人を特定できる何かは写っていないだろうか?「強力わかもと」と書かれた看板でも写っていればしめたものだが、そうした情報がなくても、出身地や、勤務地、つぶやきその他の投稿などの情報を総合することで特定できる可能性もある。自分はそれを隠していても、フォロワーやフレンドが「誰誰とどこそこにいます」とか、しょっちゅうリプライしあって会話していたりすると、それも危ない。例えば 2 ちゃんねるの鬼女たちはそうしたわずかな情報からの探索能力がハンパないし、それで個人を特定された人間が何人もいる。

半月ほど前に、SMM で一家言持つ、そのスジではちょいと名のある人と呑んだ。某氏はそうした立場になる前から親しくさせていただいており、アレコレ本音の部分も聞けたのだが、SNS を利用する上で特に注意していることのひとつが、子供の顔が写った写真を公開しないことであるという。子供の写真、美味しそうな料理、ペットは鉄板でレスや like! の貰えるファクターだが、そこで迂闊に顔が出るようなものを表に出すと、何かあった時に対応できないからであるという。もちろんそうした自体は万が一であると思うが、その万が一に備えるのが情報発信者の意識しなければいけないところであると思う。個人的には、子供の写真を出すことなど考えられない。それは危険回避であると共に、インターネットという削除されることなくいつまでも新鮮なものとして情報が残る中で、彼らが成長した時、勝手に写真を載せられていたことにどう思うかが分からないからという、個人の尊重でもある。

twitter の発言は、twitter.com だけで見られるわけではない。○○ったーという名前のサービスがいくつあるのか知らないが、そこではわざわざ見やすいように情報を整えて Tweet を見やすくしてくれているものもある。そしてそれらは削除出来るかどうかの保証もない。いつまでもキャッシュとして残り続ける。

最近の企業の人事は応募者を Facebook で検索するという。学生が就職ツールとして活用できる Facebook だが、学生同士のコミュニケーションなんかに使うと、その先には大変なことが待っている「かも」しれない。Twitter は馬鹿発見器として、日々愚か者の不正行為や違法行為が発覚している。かつては mixi がその筆頭だったが、今はもっぱら Twitter だ。

過度に用心する必要はない。それではむしろ SNS の意義も薄れるというものだし、気軽なコミュニケーションという良さがスポイルされてしまう。しかし、人はもっと「見られている」ことと「それが残る」ことを意識しなければならない。自分も結構な情報を出してきているが、こうした時代だからこそ、なおのこと情報というものを意識していこうと思う次第だ。

9/7 (WED)

金がないのは首がないのと同じだというインパクトある言葉を目にしたのは西原理恵子の著書だった。まったくその通りである。金さえあればなんでもできる。元気なんぞなくてもまずは金だ。清く貧しくという暮しもあるのだけれど、実際にはなかなかそうもいかない。

金がないのは余裕がないのと同じだ。金持ち喧嘩せず。貧乏人は諍いばかりだ。早く金を貯めよう。

9/6 (TUE)

日記を公開するたびに、「こんなネガティブ満開のテキストを公開していいのか」という思いがよぎってしまう…。パブリック リソースを使い、読者がいる以上、その読者が読後に何かしら「読んで良かった」など、得るものがなければ意味がない。もちろん必ずしも達成出来ているものではないのだが、そう心がけていたつもりではあった。

然るに、である。このサイトを再開してから 10 か月、一体どれだけそうしたポリシーに沿ったものが書けてきたことやら。得るものどころか、嫌な気持ちになったり心配させたり呆れられたりするような内容のものばかりだ。無駄に長い愚痴と、厭世観ばかりの泣き言日記となっており、甚だ恥ずかしい。果たしてこの日記を読んでいる人たちは一体どう感じているだろう。フィードバックしてもらいたいと思うこともあるが、そうした仕組みを組み込んでいないから、そのあたりは推し量るしかないのだが、不思議とカウンターは増えているからリピートしてくれている人もいるということだ。ひたすら申し訳ないと思うと同時に、感謝するばかりである。

ハッキリ言って、いつまでもこんなものばかりを書いていたくはない。元々はいくつかの有名テキスト サイトに憧れ、読んだ人がクスッとなってしまうエッセイ的なものが書きたくて始めたサイトだ。今の状態は黒歴史だが、偽りない自分であることに変わりはない。「ま、そんな時期もありました」と、いずれはもネタにして笑えるといいのだけれど。

9/5 (MON)

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本当は今月の 20 日くらいから 10 月の前半くらいにかけて沖縄を目指して旅立つつもりでいた。だが、父親の膝の様子と自身の肘の様子からするにどうも先送りせざるを得なさそうだ。父の膝は普通に歩くことはできるものの、まだかなりの腫れが残っており、傷口も生々しさが消えない。熱を帯びるような感じで常に冷湿布をしていて長時間の立ち仕事などは痛みを呼ぶ。この状態ではとても一人だけ旅に出るわけにはいかないだろう。

自分の肘も痛みそのものはほとんど消えているのだが、ここ半月くらいのバタバタでリハビリはほとんどできず、また懸案となっている固定金属の飛び出しがとても気になるようになってきた。指で触れると明らかに突端の形がわかるようになり、何かの弾みでぶつけたりすると結構な痛さだ。金さえあればすぐにでも手術して取り出してしまいたいのだが、そんな余裕は全く無く、どうにもならぬ。安静にしつつ、可動域を増やすリハビリを続けるしかない。

旅に行こうと思っていたときはまだ経済的にも多少余裕があった。だが、引越しが急展開を見せ、その費用をすべて負担したことで 50 万近くが一気に消えていった。同時に仕事依頼も入ってくるようになった。そのどれもが 9 末納品だ。となると休むこともできない。意識して営業をかけたわけではないのに仕事が来るのはありがたいことなのだが、少し困ったなあ…という気分。だが、悲しいかな、自分は仕事を断ることができない。もともと仕事を失うことに恐怖と言っても良い感情があるし、先の理由で経済的に逼迫している今、断ることができなかった。正直、今この時だけは静かにしていたかったのだが…。

9 月の後半に訪れる連休はシルバーウィークといい、2009 年などは有休を 2 日取るだけで 9 連休となる企業もあった。今年は 3 日取れば同じように 9 連休となる。台風も抜け、暑さも一段落した頃、行楽や旅行などにはいい時期だろう。だが、Kashi. にはそうしたことも無関係だ。毎年取引先各社の人々がそうしたことを話題にするたび、自分で選んでおきながらフリーランスの身が恨めしくなる。もちろん自分に対する逆恨みであり、道理の通った話ではないことはよくわかっている。

だが、それだからこそ。
この秋、Kashi. は本当に旅に出たかった。恋人や家族と一緒ということは出来なくても、人様と同じように人並みに休暇を取り、心を洗いたかった。せめてそうすることで自分だけが取り残されているようなこの感覚を払拭したかった。もちろん行こうと思えば行けたであろう。だが、弱い自分が前述のようなことを言い訳に諦めてしまった。こうした不甲斐なさに対して、もう抗い、怒り、叫ぶ気力もない。また静かに心が少しだけ欠けていく。本当に情けない。

9/4 (SUN)

蝉時雨の声がラピュタのオープニングで飛ぶタイガーモス号のプロペラ音そっくりに聞こえる。実家の玄関にはツクツクボウシの亡骸。もう夏も終わりで蝉たちも残り少ない命を燃やすのに必死だ。

今日は所沢マンションの明け渡し。煙草のヤニがついた壁紙を見てどう判断されるかと思ったが「クリーニングで済みそうですね」という。ホントに?そりゃ、それに越したことはないんだけれど。まあ敷金の中で収まってくれるならそれでいい。

残置物の確認をしていると「あれ、このロールカーテンはなんですか」などと言い出す。「最初からついてましたけど」と答えると「あー、じゃあ前のオーナーの残していったものですね」とメモをしている。ふざけるな、だったら最初からそう言え。このロールカーテンのおかげでどんだけいらぬ苦労をしたと思っているのだ。長さが合っていないせいで、引き込む際には床にはみ出すくらいまで引き出さねばならなかったり、留め具が安物でプラスチックを使っており、直射日光によって脆くなっていたり、施工がいい加減で落下してきたりと癪の種だった。それを出て行くからということで、わざわざ木ネジまで購入して修繕したというのに、それが残置物だと!

とにかく余計なことを突っ込まれたりしたくないので、鍵を渡しこれにて終了、と早々に引き上げる。折悪くその瞬間だけ台風特有の大雨。女房たちの新居に移動し、一通り済んだことを報告。家の中は当然ながらまだ乱雑だ。そのまま帰ってしまっても良かったのだが、照明器具の取付や家具の耐震対策、メタルラックの組み立てなどをやってやる。

こうした作業をしていると、まだ一緒に暮らしていた頃を思い出す。女房はこうしたことに疎く、テレビの配線も出来ない。その都度自分が引き回しをしたり、工作したりしていた。照明器具の取付にしてもアタッチメントを捻り、マーカーに合わせてカバーをつけるだけだ。3 分もかからない。そうした作業のたび、女房は「お父さんはすごいねえ、なんでもできるね」とよく言ってくれていて、今日もそれは変わらなかった。

一通りの作業が済み、最後に家を仲介してくれた業者に二人で挨拶と仲介料の支払にゆく。もう 60 歳を過ぎた女性だが、最初に住んだマンションの管理人をやってくれた人で、なにかと家族で世話になった人だ。今回の物件探しについての理由も驚きつつ理解を示してくれ、なんとか暮らしやすいようにと腐心してくれた。「あら、今日はお二人なのね」とちょっとびっくりしていたが、「ひょっとしたらね、今後ヨリが戻るってこともあるかもしれないしね」などと言いながら仲介料を 5000 円もおまけしてくれた。節約したい今、わずかではあるがとても有り難い。

所沢にはもう自分の居場所はない。賃貸の名義は自分のままだし、住所変更などもこれからだ。だが、事実上これで所沢での生活は終わった。1999 年の夏、居を構えてから丸 12 年。都心までは遠かったが、近隣にはなんでもあり、車さえあればとても便利で住みやすい町だった。はじめて女房と二人でこの町に来たときに最初に食事をしたうどん屋さんは奇しくも女房と同じ名前の店だった。その店も今はもうない。

[画像] 2 つ並んだスープ

最初に暮らした小さな 2LDK。目の前にあった公園は高いケヤキに囲まれ、静かな癒しの場所だった。写真立てにはそこで撮った二人の写真。まだデジカメなどが一般的ではなかった時代の写真はすっかり色褪せてしまった。思い出とはこうあるべきだろう。デジタルデータでいつまでも鮮明なままでいるよりも、時を感じさせてくれるほうが良い。でなければ、人はいつまでもそれが鮮明なものだと勘違いをしてしまうから。

さようなら、所沢。緑が多く、飛行機が雲を作り、東京よりも遥かに多くの星たちが瞬く町。家族で暮らしたこの町を自分は忘れない。良かったことも悪かったことも。

9/3 (SAT)

ユーザーになってみて 1 か月半。INFOBAR A01 は、やはりストレスが多い。アプリもいくつか入れてみたりしたが、結局やることはメールと通話。あとは暇つぶし的に Facebook を確認し、たまに Web を見るくらいだ。だが、やっぱりというか、あの小さな画面で Web 閲覧をするのはキツいものがある。フリック入力は便利だが、変換が今ひとつだから、結局ガラケーでの入力とトータルの速度は変わらない。スマホからでは、twitter をつぶやくこともないし、Facebook への投稿も今ひとつ不便。そしてやっぱりバッテリの減りは不満だし、クレイドルがなく、ケーブルを直結することの煩わしさが否めない。

デザインと UI については申し分ない。本当に好きだ。しかし、何度も書いたが、使い勝手が悪すぎるのである。精度の低いタッチパネルは操作しているのに反応しないということがしばしばだし、続けざまに通話をしたい時、1 通話終わるたびにロック画面に戻ることの煩わしさや、光センサの反応の鈍さ、物理スイッチでないシャッターなど。デザインと UI に心は砕いても、操作性という一番肝心なところに配慮できなかったのは大きな失敗だったと思う。昨日は Windows Phone について、簡単なインプレッションを書いたが、後発だけあって遥かによく出来ている。

だがしかし、だ。結局このまま行くと Kashi. はガラケーに戻りそうな気がする。ガラケーと iPad、これが一番自分のスタイルにあっているように思えるのだ。Windows Phone 7.5 タブレットが出たらそちらを買うかもしれぬ。だが、いずれにしてもこれは時代遅れのスタイルであることも間違いない。いずれ朽ちていくガラケーを握りしめながら、数年後にまた「どいつもこいつも何も分かっていない」と憤る自分の姿が、今から目に浮かぶようだ。

9/2 (FRI)

1 日原稿書き。日付が変わる 30 分前、なんとか初稿を仕上げ提出。金曜日のこの時間ではとても提出したとは言えないだろう。自己嫌悪。

au から発売された Windows Phone 7.5 搭載スマートフォンの出来が非常に良い。電源に不具合があるようだが、少なくとも自分にはそう感じたし、購入者の評判も悪くはないようだ。現在利用している INFOBAR A01 をレビューした際にも書いたが、iPhone がヌルヌルなら Android はビラビラといった操作感。WP 7.5 はそのどちらとも違う感覚で速度感こそ iPhone に及ばぬものの、Android 端末に見られる「タッチしているのに反応しない」といった不愉快さは皆無であり、しっかりと操作に追従してくる。ピタピタ、といった感覚だろうか。

細かな演出もこれまでのマイクロソフトとは一味違う繊細な印象を受けた。画面からオーバーフローする領域をスクロールさせる際、終端まで到達すると、iPhone や Android ではバウンドするような挙動でスクロールが止まる。これはフィンガー ジェスチャーのように個人ごとの操作幅が大きい場合は有効な演出であると思うが、Windows Phone 7.5 では、これにほんのちょっと味付けを加え、バウンズする際に重力が加わったかのように、ほんの少しだけ全体がムギュっと潰れる。愛着の湧く可愛らしいエフェクトだ。また、待機時間の際に表示されるプログレス インフォメーションも iOS や Android がクルクルと回る円であるのに対し、非常に小さなドットが電光掲示板のように流れて消える。大きめのメトロ UI パネルといい、全体的に静謐な印象だ。

アドレス帳という概念を無くし、電話も SNS の配信情報もすべてを一元管理する People ハブの考え方はユニークだ。今となっては電話も単なるコミュニケーション アプリということであろう。各アプリを別個に起動して更新を確認するという行為を煩雑と感じるか、正統派であると感じるかは個々の好みだろうが、新しいアプローチであるのは間違いない。

演出という面では、背景とフロントのインターフェイスが完全シンクロせず、デスクトップを左右に動かすたびに背景が少し遅れ、ずれるような形で停止するという挙動も面白い。この効果により多重レイヤのような錯覚が生まれ、画面に奥行きを感じられる。

不自然なローカライズと MS P ゴシックによる文字表示は相変わらずどうなのかと思うが、カーブフリックによる入力は確かにスムーズだ。慣れは必要だが、思っていたよりも悪くはない。カメラ性能も十分な高画質だし、なにより物理ハードスイッチによる起動と撮影は非常に扱いやすい。タッチパネルによるシャッターは、フロント カメラがない端末では非常にストレスが溜まる。なにせ自分撮りがまったく行えないのだ。

iOS、Android を所有し、Windows Phone 7.5 を触ってみて感じることは、やはり Google は OS メーカーにはなり得ないということだ。なり得るのかもしれないが、それはかなり先のことだろう。汎用であることは素晴らしいと思うが、それゆえの雑さがあり、それを良しとしている雰囲気がある。完全オリジナルで OS を作れるマイクロソフトはやはりこの世界でのトップであろう。あとはマーケティングとセンス。そして金儲けではなく、揺るぎない自信をもって妥協無く「これが良いものなのだ」と言えるだけのスピリットを持って欲しい。

9/1 (THU)

「カレログ」という Android アプリが物議を醸している。ご存じの向きもあろうが、彼氏の Android 携帯にインストールすることで、GPS 情報はおろか、通話記録バッテリ残量までチェックできるというもので、配信元サイトではあたかもコッソリと使う、つまり彼氏側の同意無しに使うことが前提かのような書かれ方もされており、プライバシー的にどうなのかということで目下炎上中だ。

当然のことながら、このアプリは粛正されることになるだろう。明らかに犯罪幇助だ。謳い文句通りに利用すれば、個人情報保護、不正アクセス防止などなどに思い切り引っかかる。よくもまあこんな恥知らずなアプリを作れたものだ。iPhone の位置情報ログ問題を知らないとでも言うのだろうか。

研究者、技術者というのは自己の利益や好奇心だけで動いてはいけない。このアプリは、カー用品店などで「公道では使用しないでください」と免責しているからいいだろ?という感じで、法定違反の明るさのヘッドライトや、一定速度以上で傾いて読み取れなくなるナンバー プレート ガーニッシュと同じ悪意がある。一言書いておけばいい、というものではない。公開、公表、発売すること自体が罪 (法的にでなく道徳として) であると認識しなければならないのだ。

レオ・シラードやエンリコ・フェルミといった科学者は原爆開発の基礎理論に大きく携わりながら、原爆への応用について反対論をかざした。しかしマンハッタン計画により原爆は完成され、ヒロシマ・ナガサキの悲劇を生み、今なお世界は核兵器による脅威に満ちている。科学研究とは自然が隠し持っている奇蹟と物理現象を暴いていく行為でもある。その中には人々の恩恵となるものもあれば、脅威となるものがあるのだ。そして後者であるならば、そのインパクトや自身の名声に惑わされず、科学者はそれを封印するか、万が一世に出てしまった際の対応をどう講じるか、そこに力を入れるべきだと思う。「すごい発見した!」と発表するときは浮かれているかもしれないが、人間とは愚かなのだ。それによって自己の利益だけを追求しようとする人間が必ずいる。

Winny という P2P アプリケーションも多くの悲劇を生んだ。制作者は 2 ちゃんねるという世界の中で自己を顕示しようとしたのだろう。確かに技術としては素晴らしいものだった。だが、どういった目的で使われるのかはわかりきっていたはずだ。アプリケーションと制作者に罪はない、使う側の人間の問題だとの主張は当然ながら退けられた。

企業情報の流出などはたいしたことはない。だが、恋人とのベッドシーンが鮮明に写された写真を広められた女性たちの苦悩は如何ばかりか。カジュアル ハッキングと呼ばれる行為はみな安易な発想の元に作られたツールによって行われる。キー ロガー、パケット モニタ、ポート解放ツール。これらは公開などされる必要のないツールだ。カレログもまたある意味でのハッキング ツールである。ここまで堂々と公開し、最大で年間 8,000 円近い料金を取るということになんの疑問も持てない企業倫理の無さが恐ろしい。そして Android API の怖さ。アプリ制作者がその気にさえなれば、どんなことでも出来てしまうということが公になった今回の騒動。iOS にしても Windows Phone にしてもその危険性はあるだろう。しかし無法地帯とも言えるのはやはり Android だ。ここまで野放図であると、制御、統治することができない。それを自社利益になるということで黙認状態の Google。画像検索での無修正画像に制限をかけることもなく、ストリートビューなどスレスレのサービスや、明らかなコピーゲームを堂々と配信、展開する企業ならではだと思う。マイクロソフトと Apple は、全力を挙げて Google に対抗してもらいたい。考えすぎかもしれないが、そう思える今回の騒動であった。

#(追記) : このアプリを知ったのは Facebook での投稿だった。そこでレスをした人々は皆「マジ怖いw」とか「サイコーw」といった軽いノリであった。この危機感の無さはどういうことなんだろう。仮にも皆 IT に携わる人々である。もっと真剣に議論してしかるべきだと思うが、所詮この程度の認識なんだろうか。それとも Kashi. が深刻に捉えすぎなんだろうか。だとしたら、IT なんか無くなってしまえばいい。

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※過去ログは追々体裁を整えてから公開していきます。

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