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2011 NOVEMBER

11/30 (TUE)

借金した翌日に、遅延しまくっていた入金がある。なんだよもう…。

11/29 (TUE)

20 日に養育費として入金を済ませて以来、とうとう銀行残高が \5,000 円を切った。甚だ情けない話だが、もはやどうにもならぬ。財産を切り売りすればしのげなくはないが、二束三文で思い出を売るのも忍びないわい…ということで、カードローンに手を出す。断腸の思いではあるが、社会経験だと思って飲み込むことにする。借入金額は 15 万円。借入先は、口座を持っているということで、三菱東京 UFJ 系列のモビットを選んだ。

それにしても人生初借金。とても悔しい。しかも事業融資ならまだしも、個人的な生活費不足という理由。まあ悔しがったところで、自分の不徳であるから不平を言うのも筋違いなのだが、そもそもしたくもない借金をするハメになったのは、某個人経営の中小企業から請け負った仕事が完納済であるにも関わらず、約束から半月以上過ぎても入金されないことが原因である。

金払いが悪く、手離れも悪い。クライアント コントロールができない、このお客さんから請け負うことはもうないだろう。

11/25 (THU)

高校時代の友人 N 氏から FLASH 制作の依頼を受ける。N 氏もまた Kashi.と同様に個人事業者として Web 関連の制作を行っているのだが、クライアントから子供向けコンテンツをリクエストされ、制作可能な人材を捜しているとのことであった。だが、Kashi. は FLASH による制作に自信がない。数年前であればまったく問題なかったが、世の中から Flash が消えゆく今、わざわざ勉強しなおす意義もなさそうだ。ということで出来る会社さんを紹介することにし、先方と打ち合わせも兼ねて双方馴染みの店で呑み。幸い快諾いただけたのは何よりだったが、そこで共通の知り合いの近況を聞き、ゲンナリした。

今晩ほど人に対して失望した夜は人生で一度もない。表では人当たりの良い顔をしながら、裏側でそれを大きく裏切る行為をする人。そしてそれがバレると、自分のやったことに対して償うこともできず、逃げだし、人との本質的なやり取りを拒絶する。そういう人がいることを知ってしまった。

どれだけ呑んでも酔えなかった夜。こんなに哀しい夜は初めてだ。

11/19 (SAT)

Kashi. にはスポーツの話題を振るのは止めて欲しい。きっとあなたが不愉快になるだけだから。そんな土曜の夜。

11/14 (MON)

更新停止宣言からこっち、「ああまたこんなネガティブなものを見せてしまった」とか、ニュースサイトを見回らずに済むようになったおかげで、そういった部分での気は楽になった。ということで、気楽に日記を書かせてもらおう。これまでのネガティブ日記はある意味 SOS みたいなものだったわけだが、それをいくら発信しても、周囲からはなんのアクションもこなかった。はっきりいって無意味だなと。ならば、そんなものを発信する必要はないし、それはもう自分の中で落としどころを見つけるだけなのだが、それ以外にも吐き出したい場所というのは必要だ。

今後は積極的に更新を宣言するつもりはないが、日記だけはこうして書いていく。さて、これがアップロードされるのはいつになることやら。

11/14 (MON)

しばらく本サイトの更新を休止しようと思う。何かを期待されるサイトではないし、開いてみればネガティブなことだらけ。閲覧する人も気分が悪かろう。

今の自分は正常な状態ではない。何を以て正常とするかどうかは人によるだろうが、日々に疲れや焦燥を感じ、希望や夢が見えないような状態は不調であるといっていいだろう。

まさに八方塞がりである。今の自分は孤独感がものすごい。孤独感を解消するためには、新たな出会いが必要だろう。だが、40 という年齢、別居中で子供二人の養育費を支払い、母親は寝たきり、フリーランスで収入にも不安があり、商業デザイナーという将来性のない職業。このグローバル時代に英語のスキルは中学生以下、学歴もなければ、不動産もない。車は 15 年前のボロ 1 台。女房一人幸せにできないような男に好意を寄せてくれるような女性がいるはずもない。

今更どこかに再就職して組織の中で働く自信もない。古い価値観で今の時代のスピード感に対応することもできない。せめて経済的に豊かな状態であれば、しがらみから逃れ、のんびり旅にでも出られるだろうが、このところの経済的逼迫はシャレにならず、今となってはロクな価値もない持ち物を切り売りし、小銭をかき集めて暮らす日々。酒を呑むのもままならないようでは、息抜きも気分転換もあったものではない。

物事がうまくいかない時というのはこういうものなのだろう。何かを解消するために何かが必要、しかしその何かを得るためには別の何かが必要で…といったスパイラルだ。今はひたすらそれに耐え、少しずつ少しずつ時間が解消してくれるのを待つしかない。いつまでもこうした状態であるということはないだろう。だが、単純に耐えるということがしんどい、それだけだ。なんとか耐え、我慢し、歯を食いしばりながら生きてはいるが、その間には呪詛も叫びも出る。だが、それは醜いことであり、それを目にする人を不愉快にしてしまうだけだろう。そうした醜態をこれ以上人様に晒したくない。

おはよう、いってきます、ただいま、おやすみ。楽しいね、素敵だね、ありがとう、ごめんなさい。そんなふうに人様が当たり前のように過ごしている日常すら、今の Kashi. には眩しすぎる。狂犬病患者が光と水を恐ろしがるようなこの状態が、悔しく情けない。こうした暴露も、叫びのひとつである。だが、叫んだところで人は何もしてくれない。煩わしく、「なんなのこいつ。マジでウザイんだけど」と思われるのが関の山。

いつか人を妬んだり、嫉んだりしなくなれた時、また。

11/11 (FRI)

雨の金曜日。気分は鬱々とするばかり。ふと、着信履歴を見ると、この数ヶ月仕事と父親、時折女房といった感じ。世間では僕は友達が少ないなんてラノベがあるが、世の中には少ないどころか、いないという男もいるのであった。

先日、クライアントでお世話になった方の御尊父が他界されたとの報を受ける。もっともこれはその連絡を受けた人の一人が気を利かせて教えてくれたものであって、直接自分に知らされたわけではない。転送されたメールを見ると、当時自分がその会社に常駐していた際にお仕事させていただいた人々の名前が To に並んでおり、本文には「○○氏と関わりがありご案内できていない人へ転送してください」とあった。気を利かせて転送いただいたのはありがたいが、この時点で名前があがっていないようであれば、自分には関係のないことだ。お世話になった方ご本人ならともかく、その父上などと言われても対応に困るだけだし、せいぜいお会いした時の空気次第でお悔やみを申し上げる程度だろう。

当時は自分もそれなりに役に立っていたと思うのだけどな。メール主とは今でもクライアント内でお会いするし、ご挨拶もする。今回喪主となる人が退職される際には商売抜きで餞別の冊子などを作らせていただいたものなのだけれど。そういえば先日退職された K 氏にも送別会の寄せ書き用にと似顔絵イラストを描いた。結局 Kashi. は仕事で出席出来なかったし、直接業務で関わることはなかったけれど、心を込めたつもりだった。だが、当のご本人からは何の言葉もいただいていない。Facebook でつながってもいるのに。そういえばといえば、2 か月くらい前にも無償で似顔絵を描いたのだけど、結局その時にメールで礼を言われただけだ。「呑みに行きましょうね」と言われていたのだけど。自分から声をかけ、セッティングしなければ実現しない社交辞令にはもうウンザリだ。

自分はこれまで仕事をするにしても、心意気でやってきたつもりだった。本来なら報酬をもらっても良いレベルのことでも、お世話になっている人だし、その人々に好意を頂いているからこそ、損得抜きでやってきた。けれど、最近は、所詮便利屋なのかもしれないと思うことが多い。必要以上に肩入れしたところで、自分にはなんの言葉も届いてこない。ちょっと距離が開けば忘れ去られ、いなくなってしまったのと同様の存在なのだと感じるようになってきた。

人を好きになりすぎるような、深い思い入れはもうやめようと思う。所詮は客と下請け。何かあったとしても彼らは自分を守ってくれるわけではない。震災にあったところで心配の声がかかるわけでも、骨折したことが知られても見舞いに来て貰えるでもない。多分彼らは自分がいなくなっても何も困らない。別の下請けを探すだけだろう。例え自分が死んだとしても、せいぜい立ち話の話題になる程度ではなかろうか。

人様のことを、そんな風に斜に構えた視点で見たくはないし、そんな風に思ってしまうことが情けなく、申し訳ない。けれど、今の自分にはそれを覆せるような自信も根拠もないのだ。

11/10 (THU)

Facebook を眺めていると、とある友人がえらく積極的に友人を増やし、全国のマーケティング セミナーやら異業種交流会などに参加している様子。それはそれですごくアクティブに活動しているなあと思うのだが、就職先を見てみると、IT 系のコンサルや、デジタル デバイスのアプリ、サービスなどを提供する会社のようで、正直何をやっている企業なのかよくわからない。

もちろんこうした職種が悪いとは思わない。今の混沌とした IT 業界にはこうした立ち位置の企業も必要なのだろう。だが、前述の友人はもともとプログラマであった。プログラムというのは人格が出るもので、彼の場合もまたそれは同様であった。一緒に仕事をしていた時は、誠実な人柄が現われる安心できる成果物に毎回期待していたものだ。

そんな友人が、コンサル企業で人脈作りに勤しんでいる。人様の人生であるし、よくよく考えてのことであろうから、Kashi. のような自堕落な生活をしている人間が何か口を挟めるようなことではないのだが、個人的にはとてももったいないと感じてしまう。業務としてプログラムも続けているようだが、あまり集中できるような環境ではないように見受けられる。

エンジニアはまた別としても、コンピュータ上における、あらゆる動作はすべてプログラマの手によるものだ。彼らに出来ないことは何もない。時にはハードウェアの限界すら、ソフトウェアで超えてゆき、ユーザーに感動を与えられる。かつて電波新聞社から発売されたタイニーゼビウスというソフトウェアで Kashi. はそれを痛感したものだ。プログラマってすごい!Kashi. はまだ小学校 6 年生だったが、その感動は今でも忘れられない。後年、そのプログラマが中学生であるということを知ってさらに驚いたものだった。

デザイナーのこだわり、ディレクターの無茶振り、サウンド屋とのメモリ争奪などなど、プログラマの仕事はひたすら地味で裏方だ。画面上で動いているのはキャラクタであり、スピーカーから聞こえるのは音であり、コードが目に見えるわけではない。それでもキャラや音楽が止まった瞬間、ユーザーは「バグだバグだ」と騒ぎ立て、プログラマは悪役にされる。読み込みが遅い、レスポンスが悪い、処理がもたつく。悪い時だけが目立ち、良い時は評価されない。バンドであればドラマーのようなもので、うまくいって当たり前、失敗は許されないという非常に損な役割だ。

だからこそ Kashi. はプログラマという職業を心から尊敬してやまない。最近のプログラマは皆カジュアルになってしまい、CPU パワーと無限のメモリ空間、豊富なライブラリに甘え、コーディングにポリシーを感じられない。だが、かつてのプログラマは限りあるリソースをどれだけ自分の支配下におけるかを常に考え、そのための努力を惜しまなかった人が多かったように思える。本来御しきれるはずのない精霊たちを呪文を唱えることで手足のように扱う魔法使いに似る。卓越したプログラマがウィザードと呼ばれる所以だろう。デザイナーやコンポーザーはせいぜいアーティストが良いところ。人々から尊敬と畏敬の念を込めて「魔法使い」などと称される職業はプログラマだけだ。

ゲームは衰退の一途を辿り、アプリケーション ソフトウェアは売れない。スマートフォン用アプリは無料のものばかりがもてはやされる。IT や Web の世界にあって、今もてはやされるのは SNS API を叩いてスクリプトを動かす時代。プログラマにとっては冬の時代だろう。だが、その SNS にしてもシステムを構築し、膨大な量のデータを効率良くコントロールできるのは、やはりプログラマなのである。

プログラマだけが、この不安定な IT 業界において不滅であると思う。デザイナーはいつかセンスが追いつかなくなる。オーサリング ツールの充実で、ハンド コーディングの意義も薄くなり、いずれは誰でも Web ページを作れるようになるだろう。コンポーザーはもう少しマシかもしれないが、やはりセンスが追いつかなくなる時がくるだろうし、作曲ですら自動化される時代も近そうだ。歌はボカロに任せてしまえばいい。だが、AI が高度なレベルまで達し、コンピュータが自らの意志と力で動き始めない限り、プログラマはやっぱり必要だ。そして一度身につけたプログラム センスというのは消えることのない財産だろう。

ソフトウェアを作ることができるということ。それはものすごいことなのである。義務感でのマーケティングやプランニングに惑わされることなく、そこは自然体で受け止めるに留めて、日々技術の研鑽を積んでいただきたいものだ。

11/9 (WED)

午後くらいから軽い頭痛がずっと続いていた。夕方を過ぎるころ、さすがにそうした状態が鬱陶しくなってきたので、少しだけのつもりで横になると見事に深く寝入ってしまい、父親の食事の仕度をすっ飛ばす結果になってしまった。申し訳ない限りであり、気持ちが沈む。

それに追い打ちをかけるように、気持ちが沈むことがあり、それは、寝込んでいる刹那に見た、現実とあまりにもギャップのある夢が原因であった。もともと夢は非現実的なものなので、現実とのギャップといっても、完全にファンタジックな世界であれば別にどうということもない。疲れるのは、登場人物が現実に存在している人であったり、実際の世界観の重なるような夢である。内容が普通であれば良いのだが、Kashi. の見る夢というのは、文字通り現実逃避のような内容のものが多いから、目が覚めた時に「あ、なんだ…夢か…」という疲労感がものすごいのだ。

今日はもともと 2 つほどの理由によって、日中から気持ちが沈んでいた。もちろん誰のせいでもなく、ただ、間が悪かったというだけのことである。冷静になればどうということのない内容だ。だが、そうしたリアルが、夢では増幅され、さらにインパクトのあるものとして牙を剥き、リアルでの自分に襲いかかってくる。そのせいで今日 1 日がひどくしんどいものとなってしまった。せっかくここしばらく前向きな気持ちで過ごせていただけに残念だ。明日は良い日でありますように。

11/6 (SUN)

無料であったり、安すぎる価格であること。これはどんな分野でも破滅への道ではなかろうか。スマホ ユーザーの急増に伴い、電波帯域は大混雑。3G はもはや定員一杯で受け入れの余地がない。各キャリアは WiFi スポットを用意して、そちらにトラフィックを逃がすように仕向けているが、大半のユーザーは素人だ。購入時の段階や OS レベルでそこをサポートしないことにはなかなか浸透しないだろう。となると、欧米の動きにあるように、日本でも従量制課金が復活することになるのかもしれない。

しかし Kashi. はそれでもいいと思う。なんでもかんでもググればいいという風潮もなくなり、ひたすら繋ぎっぱなしで無料詐欺ゲームに浸り、数十万の請求をされることもなくなるだろう。どうしても必要なときに、いくばくかの対価を支払うことで便利な手段と情報を得ることができる。これが本来の正しい在り方に思えてしまうのだ。Facebook や Google+ も会員会費制にすれば、本当にソーシャルでの交流を必要とする人だけのコミュニティとして長持ちするような気がする。金を出すと言うことは会員が運営に対して口を挟む余地があるということだし、それで意見が反映されるのなら会員も幸せ、運営には定期収入が入って幸せということになる。こうなれば洗練された広告表示も可能になるであろう。金のやり取りが発生するのであれば、プロファイルは厳密に取る必要があるし、そこでターゲットを最適化すればいいからだ。CTR も ROI も高い値を出せる。

早く有料化にならないかなあ。そうすれば、ついつい気になって…というダラダラ閲覧から抜けられるのだが。

11/4 (MON)

9 月の日記で犬の飼い主に向けた日記を書いたばかりだが、今日ネットで「ピザーラのバイクに犬を轢かれた」と激昂しているブログが話題になっていた。ブログ主の記事内容は非常に感情的であり、部分部分で文字を Q 上げして色をつけ、殊更にピザーラの対応を非難していた。記事は終始私見主観でのみ構成されており、非常に読みづらい。こういうやり方は逆効果でしかない。

前述の日記でも書いたが、犬は物扱いである。ピザーラは器物損壊に対する賠償責任はあるが、その他の対応は一般的だ。ブログを読む限りでは多少冷徹な印象があるが、これはブログ主の印象操作にも思えるし、クレーマーのような対応に対して辟易しているだけかもしれない。そこはわからないが、事実だけ抜き出せば、まあこの後の和解示談次第といったところで今は問題ないといえる。

案の定ネットには「犬は大切な家族!それを物扱いだなんて許せない。ピザーラからはもう買わない」なんてツイートが流れていたが、馬鹿じゃなかろうかと思う。前にも書いたが、犬は人間ではない。つまり家族でもない。愛玩動物として安らぎを提供してくれたり、その優れた嗅覚や運動能力で人間の良きパートナーに成り得ることはあっても、それは飼い主だけが感じることであって、第三者からすれば単なる動物である。そこをきちんと理解できていないから「犬も家族」なんて意見が出てくる。

ブログでは、「例え犬が白線からはみ出たとしても、轢いてしまって犬は物だから知りませんなんて通用しますか?犬ではなくて人間の子供だったらどうなってたんでしょうね?」とあるが、充分通用する。それが法律であり、ものの考え方だ。そもそも事故では、たらればもしの話は絶対に考慮されないが、仮に今回の事故が人間の子供だったらもちろん話も対応も違ってくる。だが、今回は犬である。ブログ主のいうとおり、犬も大切な家族、人間と同じように扱えというなら、犬もまた人間と同様に責任を背負うことになるが、そんなことはできない。だから犬は物であって、だからこそ飼い主が犬を守らなければいけないのだ。こういう基本的なことも分からない人間に犬を飼ってほしくはない。

(追記) 後日、この犬を散歩させていた本人のコメントが当該ブログに掲載されていた。曰く、これまでも大型犬の散歩のバイトなどをしていて、小型犬 3 匹と子供を連れて歩くことは体力的にも技術的にもまったく問題無いと認識していた…とある。だからなんだと。すぐに回避行動が取れるような状況でないことは明らかだ。自分の慣れと慢心と勘違いから、「勝手に」安全であると思っていただけであって、現実には事故にあっている。それをもらい事故として、相手側だけに責任をおしつける根性が許し難い。もちろんピザーラ側にも安全確認を大きく怠ったという不注意はあるし、そこは責任の焦点になるだろう。だが、事故は両方の過失で発生するものであり、バイクにはバイクの、歩行者側には歩行者側の責任がある。その割合はバイクのほうが大きくなるにしても、絶対にゼロにはならない。そこを理解できていないで、自分は被害者だとする神経に呆れてしまう。今回のことについて、ネットでも一方的な擁護論ではなく、「犬側だって悪い」という意見が多く見られたのは安心した。犬を連れて歩くということは、それだけでリスクを抱えているということを理解しなければいけない。前回の日記でも書いたが、もう一度。飼い主が犬を守ってやらねばいけないのだ。それは単に可愛がるということだけではない。前もって危険を回避するという理解が足りないのであれば、犬を飼う資格はない。

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※過去ログは追々体裁を整えてから公開していきます。

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