diary | headacher.com

home > diary > 2011 January

2011 JANUARY

1/27 (THU)

女房と話し合い。どうして心がすれ違っていってしまったのか。しかし、こうなってしまった結果は結果として受け止めながら、大事なのはリカバリであり、まだお互いに、少しでも修復の意志があるなら、そのために抱えているものをきちんと話合い、子ども達のためにどうしていくべきなのかを納得いくまで話そうと思っていた。

しかし、現実はそんな段階をとうに飛び越えていた。女房曰く、子ども達は Kashi. に対し、強く叱られた時の印象だけを残して恐怖のようなものを感じ、母親もそのことについて父親をフォローすることなく 3 人で「イヤだな」という気持ちだけを共有して、とうとう「お母さん、離婚してよ」と子ども達から訴えていたそうだ。さらに下の子は、Kashi.が深夜に一人で台所に置いてある食事の仕度をする音をドア越しに聞きながら母親に「お父さんが包丁持って入ってきたらどうしよう」と怖がるとも言ったのだという。

色々と辛いことの多い最近であったが、最近どころか、ここまでショックを受けたことは人生で一度もない。確かに Kashi. は子ども達をきつく叱ってしまったこともあるし、そこを否定はしない。特に最初の子のときは「子供の叱り方」というものに対して加減がわからなかったり、子供の経験を考慮せず、彼らの目線に立ってやれなかったという反省や後悔もある。しかし、少なくともこちらの機嫌だけで理不尽に叱ったことはないつもりだ。何度注意されても繰り返し同じことをしたり、調子に乗りすぎているときなどに強い口調になったり、ひっぱたいたりもした。しかし、その都度「なぜやってはいけないのか」といった部分も気をつけて話してきたつもりだ。それは、それだけでそんなに子供に恐怖心や嫌悪感を与えることなのか。

わからなくはない。子供にとってみれば、父親のそうした怒りは確かに恐怖だろう。Kashi. だって父親には殴られた記憶だってある。しかしだ。そこをきちんと母親がフォローしなくてはいけないのじゃなかろうか。何か悪いことをした、何度言われても直さなかった、だから叱られたのよ。気をつけようね…お父さんだって憎くてあなたを叱っているのではないのよ…そういって子ども達を慰めてくれず、何も言わなければそれは子ども達はイヤな気持ちだけがすり込まれてしまうだろう。叱った後、Kashi.は女房に「ちゃんと慰めてあげてくれ」とお願いもしていたはずだ。

確かに仕事仕事また仕事で子ども達とはまともに接してやれる時間は普通のお父さんより少なかった。遠出することはなかなかできなかったし、キツく叱ることも多かった。それでも、子ども達と一緒に公園で遊ぶこともあったし、たくさん笑いあえることだってあった。わからないことを教えてやり、車を運転して皆でドライブにいき、絵を描いたり、ギターを弾きながら歌い合ったりもした。毎日毎日家族のためにと歯を食いしばりながら普通の人の何倍も働いてきた。こちらが仕事もせず、大酒を呑み、毎日暴力を振るってきたとでも言うなら、拒否されてもしょうがない。しかし、子供の誕生と成長を喜び、至らないなりに自分では頑張ってきたつもりだった。

数年前、女房が一方的とも思える理由で心を病み、実家に帰ってしまった時、こちらは極力穏やかに説得し、理解してもらえたと思っていた。「家族の中でお母さんがニコニコしてなければ、家の中は暗くなってしまうから、言いたいことがあったらちゃんと言って、不満を抱えたりしないできちんと話をしよう」と言ったことがある。それ以後、彼女は少しずつ笑いが増え、Kashi. の他愛ない話にケラケラと朗らかな笑い声をあげてくれていた。しかし、それを「正直どう接していいかわからないから、笑っていた」などと言われるとは思わなかった。

何もかもが卑怯だ。そうやって自分とこちらを騙し、子ども達が抱えている違和感にも気づいていながら長い間それを自分の中だけに閉じ込め、結果的に一家がめちゃくちゃになってしまった。「これからどうしたいの?」とこちらが尋ねれば「子供が二十歳になるまでは一緒にいてもらいたい」などと言う。そうじゃないだろう。今、こうなってしまった原因をきちんと考え、話し合い、お互いを許し合ってもう一度きちんと正常な家庭を取り戻したいとか、愛情がないとか、あなたと暮らしていくことができませんと意志表示するならともかく、打算しか感じられない一言。そうした建設的な発言でないことに心からガッカリしてしまった。じゃあ下の子供が二十歳になる、あと 11 年間、Kashi.は食卓にも呼ばれず、挨拶もされず、家の中にいても無視されるような生活をしたまま、月々の給料だけは渡さなければいけないのか。ふざけるのも、甘えるのもいい加減にしろという気持ちでいっぱいだ。

それでもまともに家の中のことをやっているというなら、まだわかる。「もともと苦手だし嫌いだけど、でもやるようになったと思うけど」などと言うが、それなら近所のママたちに「まな板や茶碗の裏にカビを生やしっぱなしにしておくなんて当たり前だよね」と聞いてみてくれ。旦那の母親が長期入院してるのに、見舞いに一度も行かないのも当然と言ってみてくれ。どんな反応をされるか。あなたは何ひとつやれていない。ただやった気になっているだけだ。努力したとも言えない。

だが、こちらがそれでも「しょうがないか」と思えているならそれでも良かった。家事はできないけれど、ほがらかに笑ってくれ、亭主の仕事に尊敬を持ち、自分を食べさせてくれているのだということに感謝してくれているのであれば、それでもこちらは納得することもできた。しかし、実はそうした微笑みは偽りで、しかも子供がそこまで心を不安定にしていることに対して「ねえ、子供のことで大事な話があるの」と言わず、こちらを信用してくれなかったことなど、今となっては許せるものではない。

もちろん、家庭をあまり顧みることができず、母親に家庭を任せてしまっていた Kashi. にも大きな非はあるだろう。そこは本当に反省している。だが、それが遊び歩いてのものではなく、仕事の忙しさからくるものであるなら、もっとこちらを気遣って欲しかったし、ないがしろにするようなことはして欲しくなかった。何より、子ども達に父親というものの不信感を募らせるようなことがあっていいものだろうか。子供のことを考えたなら、それだけはしてほしくなかった。いつか子ども達が成長して、自分の愛する人と家庭を築くようになったとき、父親というものに尊敬も払わず、ただの金づるのような存在に感じたり、大人というものの価値観が出鱈目になるようなことになるのではと十分感じられるはずだ。

要求ばかりで、自分の要求が通らなければ自分の心を閉ざし、ギュッとしまい込んで相手を拒絶する。それはとても無責任なことだと思う。日々の些細なことから、こうした人生の問題まで万事が万事、困難に立ち向かい、打ち勝つような姿勢は絶対に必要だろう。それは生きる力であり、自分への自信にも繋がる。そうしたことができず、誰かに依存しなければ生きられないというタイプもいるかもしれない。しかし、それならそれで、自分を支えてくれ、養ってくれる人に感謝と尊敬、自分にできる範囲での愛情を見せるべきだ。何もしないで、ただ生活の安定供給だけを望むような甘えを許してくれる相手などいるはずもない。いるとすれば、愛情というものを考え違いしている肉親くらいだ。

ともかく、事ここに至るまで何もできず、気づかなかった自分がつくづく情けない。だがもうこうなっては修復というものは完全に不可能だ。経緯はどうあれ、子供たちがそこまで不安定になっていて、その直接的な原因が自分だというなら、自分はすぐにこの家を出て行くしかない。まず、自分の存在を消してリラックスさせてやらねばならないだろう。そうして落ち着かせながら、別居によって女房と今後の進退のタイミングを計っていくとしよう。女房は自分が出て行くことで受ける経済的な打撃に対して「覚悟してる」とも「実家に頼るつもりもない」と言う。そうか、それならやってみてくれ。今の時代、38 にもなる手に職もない主婦が頑張るのは相当に大変だ。生活の質も落とさねばならないと思うが、そこを実感できているのだろうか。実家にだって頼れるのであれば頼ったっていいはずだ。なりふりを構う余裕などないはずだ。考えが甘いと言わざるを得ない。当面の間、Kashi. は子供の養育費、加えて僅かな支援しか援助するつもりはない。別居するだけで、生活は変わらないから良かった、などと思われては誰のためにもならないからだ。それでは女房は何も気づくことはない。恐らくは半年程度別居期間を設けながら、社会的な手続きや方法論を模索していき、結論を出すという感じだろう。その間に、認識というものを改めてもらわねば困るのだ。

別居の間、子供たちとは月に一度程度、会うための時間を作ろうと思う。彼らは嫌がるかもしれないが、そこは無理にでも会い、その間に心を解きほぐしていけるように接していくつもりでもある。そうした限定された時間であれば、イヤならイヤで一時我慢すれば別れの時間がくるし、慣れてきたころに「またお父さんに会いたいな」と思えるようになってくれればいいい。Kashi. はこれまで「家族なのだから大丈夫だろうと」と甘えていた部分を律し、改めて子供たちのためにと強い意識を持って、彼らが大人になったときに「ああ、父親は自分たちに愛情をくれていたのだ」と感じ、自分もそうした人を旦那さんにしよう、もしくは自分もそうした父親になろうと思えるようにしていかねばならないし、それが最後に自分にできる父親としての責任だと思う。自分が愛されたいという気持ちよりも、彼らが豊かな人生を送れるようになってもらいたい。そのためのリカバリはとても大変だろう。しかし、それはやらねばならないことだし、辛いとも思わない。

もうひとつ。別居をすることで、もし女房がそれまで自分に足りなかった何かに気づいてくれ、甘さを克服できるような力を身につけてくれたなら、こちらも安心できる。子供たちと暮らしていくことになる以上、出来ればそれには本当に早くに気づいて貰いたい。そしてもし、新たな誰かと出会い一緒になることがあったなら、その時は必ずその人を心から愛し、気持ちをぶつけあえ、尊敬しあえるような関係を築いて欲しい。

本音をひとつ。別れというものの辛さやしんどさ、それまでの時間が無駄になったかのような徒労感や、交わした愛情が無かったことになってしまう悲しさ。今はそうした気持ちでいっぱいで、正直潰れてしまいそうでもある。春くらいには一度仕事を止めて、少しリラックスできる時間を作りたい。自分は独り善がりであったのかもしれない。思っているだけでは伝わらないことも多かった。理詰めと強い口調で相手を萎縮させてしまうことも良くないことだ。そうした反省すべき部分を、きちんと時間を作って見直していきたい。緩やかな時間がなければ、張り裂けそうな胸の痛みや虚無感を癒せそうにはないのだ。

子供たちよ、お父さんはお前たちが大好きだったよ。腕の中で眠る赤ちゃんの頃の君たちを抱くときはとても幸せだったし、一人を肩車すれば、ぼくも、わたしもとせがむ君たちを両方の肩に乗せてあげるのも楽しかった。お馬さんになって家中をヘトヘトになるまで歩くのも疲れるけれど、イヤじゃなかった。一緒にお風呂に入るのも、誕生日には小さなケーキを買って、重ねていく年の分だけロウソクを増やしていくのは喜びだったよ。あまりお金がなかったし、仕事が忙しすぎたから、おでかけといえば、近所の温泉くらいだったけど、お母さんと一緒にみんなでご飯をたべたり、UFO キャッチャーで小さなぬいぐるみをとってみんなで可愛がるのは優しい気持ちにもなれた。

お父さんはそんなに怖くて、嫌な人で、作り笑いをしなければならないような人でしたか。お父さんはそんなつもりはまったくなかったけれど、そう感じてしまうから今があるのだろうね。だから、お父さんは心から君たちに謝るよ。本当にごめんね。これから一生懸命一生懸命頑張るから、嫌かもしれないけれど、もう少しだけお父さんのことを「お父さん」と呼んでください。小さな頃の君たちが心からそうやって呼んでくれていたときの気持ちを取り戻せるように、お父さんは本当に頑張るから。

1/25 (TUE)

K-POP もすっかり浸透し、日々のワイドショーなどでは毎日のように KARA の分解騒ぎを報じている。おかげですっかり「ミスター」のヒップダンス映像とラララ、ラララ♪のフレーズが焼き付いてしまった (この曲を聴く度に銀河漂流バイファムの OP テーマを思い出してしまう)。契約のゴタゴタでせっかくの人気を失ってしまうのはもったいないことだ。そこにはマネジメントの問題だけでなく、本人たちの親の思惑が介在しているとも聞く。韓国の芸能事情はわからないが、日本ではだいたい親が出てくるとあまり良いことがない。鈴木亜美もそうだし、モーニング娘。では第 5 期メンバーの小川麻琴もそうだった。

こうした時、やはり一番可哀想なのは本人である。心とは裏腹に笑顔を振りまかねばならないというのは辛いものだ。幸いに 5 人の不仲説というのはガセであるとも言うし、今週はドラマ撮影のために 5 人揃って来日するという。個人的にはスンヨンがとてもお気に入りの KARA であるだけに、是非とも困難にくじけず頑張っていただきたいものだ。

1/24 (MON)

娘の誕生日。2000 年ちょうどの生まれだから、現西暦が年齢となり、年が明けてまもないうちに誕生日を迎えるから、この先も新年を迎えるたびに娘の年齢を思い浮かべることになるのだろう。
Kashi. は金曜から詰めっぱなしの仕事があり、明日朝には提出しなければならない。が、朝から机に向かいっぱなしでまともに食べていないことから 19:30 頃空腹を覚えたので休憩がてら台所に向かうと、嫁と子どもたちは誕生日ケーキを切り分けているところであった。食欲も失せ、自室に戻りまた自作のスクリプトと CSS の設計に没頭する。昨夜も完徹、午前中から打ち合わせで疲れているのに、眠気も起きない。とても悲しいことだ。11 歳おめでとう。

1/23 (SUN)

もうすっかり当たり前のように、Kashi. は夕食に声をかけられることもなくなってしまった。こちらが仕事をしているといつの間にか母と姉弟の 3 人で食事を済ませてしまっている。以前は「今日ご飯一緒ですかー」と娘なり息子なりが尋ねにきたものだが、いつしかそれもなくなった。確かに仕事をしていると 18:30 くらいに一緒に食事を摂ることが難しいこともある。日中打ち合わせ打ち合わせでやっと自分の仕事が出来る時間帯になった客が、ここぞと連絡を寄越してくる時間帯だからだ。それはそれでどうかと思う。打ち合わせを日中にして、指示を夕方以降出す。では制作する側はいつ休めばいいのか。日中に寝ていてもいいのかというとそんなことはない。もちろんこのあたりは自分で調整していけばなんとかなる部分でもあるから、客のせいばかりにはできない。稼業の因果であろう。だが、夕食を摂る 30 分くらいの時間が毎回毎回取れないかといえばそんなことはない。事実、これまでは一緒に食事をしてきた。だから共に食事を摂らなくなった背景には別の要因もある。

Kashi. の生家では、食事は作法についてやかましくはないが、それなりに注意をはらう家であった。すなわち箸の持ち方をはじめとするマナーである。この中にはテレビを見ながら食べないというものもあった。
そのあたりで我が家の Kashi. 以外の人間は、そのあたりのルールを守りきれない。テレビがついていれば見っぱなしになるし、食器の持ち方や食べ方もおかしい。Kashi. は子ども達が物心つく頃からこのあたりを教えてきて、3 歳くらいの時は上手に扱えていたものだが、年齢があがるにつれそれが出来なくなっていった。何年も言い続けた結果、箸はやっとなんとなく形になったが、スプーンなどは未だにおかしい。食器を持ち上げず、顔を近づけて食べる。まよい箸、なみだ箸、さぐり箸などなど。そしてテレビがついていれば、そちらに意識がいくものだからボロボロ食べ物を零したりする。Kashi. はそうしたことが看過しがたい。

結果、食事中はテレビを消し、Kashi. が注意するばかりの食事になる。何もこちらとて食事の時に注意なんかしたくはない。はじめの頃こそ、そうやって食べてはいけないよ、他の人への配慮であるのだよ、大きくなってから必ず恥をかくことになるよと諭してきたつもりだ。しかし直らない。そうなればこちらの注意もキツいものとなる。そして父親との食事は彼らにとって鬱陶しいものとなるのであろう。「どうせ仕事で食べないでしょう」という前提とともに、自分たちが好きなテレビをつけながら見られるほうを選んだということだ。彼らは今やダイニング テーブルではなく、テレビの前の小さなテーブルで食事を取る。

そうなるとこちらもわざわざ不愉快な思いをしてまで一緒に食事を取る気などなくなってしまう。それは放棄なのかもしれない。しかし、耐え難いものは耐え難い。家族という単位の中で、一つ屋根の下にいるにも関わらず食事を別に摂ることの侘しさや空しさがどれほどのことか。暗澹たる思いになる。

しかし、今日は女房の、明日は娘の誕生日だ。せめてと食事の前に用意していたプレゼントをそれぞれに渡す。娘は「お父さん、ありがとう!」そして嫁は「あ、はい。ありがとうございます」。
そうか、そうだよな、と妙に納得できてしまう。たまには一緒にご飯食べませんか、などと声がかかることを期待するほうが間違いなんだろうな。確かにそれは甘い考えなのかもしれない。こんな状況の中で、たかがプレゼントを渡したくらいで何かが変 わるはずもないだろうし、もっと時間を作り、多くの会話をしなければならないのだろう。そうはわかっていても、体が硬直する。贈り物を渡すことだって、意を決してという心持ちだった。そんな心境で、せめてもの…という思いだった。かすかなかすかな期待を込めてはみたものの、やはりそう上手くいくはずもなかった。その空しさ、やるせなさ。

プレゼントというのはもらう側も嬉しいが、贈る側も楽しいもののはずだ。どんなものをあげたら似合うかなとか、喜んでもらえたら嬉しいなと思いながらショーウィンドウを眺め、包装紙を選ぶ。そこには双方に笑顔があるべきだし、そうなるのが自然だ。然るに、我が家のそれはどうなのか。こんな状態、ただの形式ではないか。少なくとも Kashi. は昨日半日をかけて店をめぐり、思いを込めながらプレゼントを選んだ。お店の人に「素敵なチョイスで奥様と娘さんがすごく羨ましいです」と誉めてもらえた。下心をもって選んだわけではないけれど、こちらの一方的な思いでの行為だったかもしれない。

おめでとう、おやすみの一言もなく子ども達と眠ってしまった妻よ。Kashi. は今晩も仕事で徹夜。もう何日もまともに布団で寝ていない。それもお金を稼がねばならないためだが、もう家族のために頑張るということが辛くなってきてしまったよ。あなたは俺にどうしてもらいたいのですか。近日中に尋ねさせてもらうから、もう答えを出しておくれね。

1/21 (FRI)

世の中病気自慢とか貧乏自慢とか、ともかくそうした負の状態を自慢したくなるという謎の心理が働く時がある。修学旅行で男子生徒が「お前何時間寝た?」「俺、徹夜したもんね」みたいなことを言い合うようなものだが、今の Kashi. がまさにこの状態だ。年末からこっち、仕事を続け、1/8 の土曜から 1/12 まではほとんど眠らず、その後も一日 2~3 時間睡眠。今週はそれが復活し、17 日の月曜からこの日記を書いている今に至るまで合計で 7 時間眠れたかどうかという状態だ。1 日で 2 時間を切るという異常事態であり、こうなるとまともに仕事ができる精神状態とはならない。とにかく倒れそうな状態を支えるために、「俺、もう 60 時間ほどんど寝てないんスよ」などと吹聴し、イヤーな笑いを浮かべるようになる。

実際、そこまで起きていられるものなのか。これが意外にできるのである。もちろん完全な不眠は不可能で、時にドスンと睡魔が来たりして、それは時を選ばない。会議中にもコンマ何秒の眠りが定期的にきたりするし、盆の窪あたりがジワーンと熱くなるのを感じる。そんな感じで起きていられるのだ。しかし、これが仕事がまともに進められる状態かというと、それは間違いなく否だ。猛烈な倦怠感が襲ってきて、PC を目の前にただボーッとしてしまう。よほどその間眠ったほうがマシだ。だが、ちゃんと眠ろうと思うと、寝過ごしてしまうのが恐ろしくそれもできない。眠気覚ましにと、外の空気を吸ったり熱い風呂に入ってみたりする。時間の浪費としかいいようがない。

しかしそんな中でなんとか一段落するところまではこぎつけた。もうせめてこの日記で自慢してしまうが、いくらある程度似通ったフォーマットのページだからといって、35 ページ + 150 個のポップアップ用 HTML を 5 日でハンド コーディングできる人間がいるだろうか。そうそういないだろう。ましてや自分が作ったテンプレートとデザインではなく、得体のしれないシステムで稼働し、どの CSS がどこに影響するかわからないようなひな形を元にし、Web 用にデザインされていないデザインを調整しながらだ。さすがにアクセシビリティなど考慮したコーディングにはできない。しかし自慢してもいいと思う。

誰か誉めてください。それくらい願ったってバチは当たらないと思うのだけど。

1/20 (THU)

とある科学のシステム案件において、「デザインをお願いしたいのです」と言われて早 4 か月。先方の仕様は未だ固まっていない部分がある。その間、こちらは拘束され、デザイン カンプを何枚も出してきた。そしてサンプル用の挙動を再現した HTML も組んだりした。打ち合わせに使った時間はいったい何時間に及ぶのか。そして今日、いよいよどうなってるんだというところの話し合いをするにつけ、その時間はなんと 5 時間。それも「すみません、もう終電です」と言ってやっと解放されたようなものだ。余談だが、結局終電には間に合わずタクシーを使うはめになり、これもとんだ出費。正直まったく割に合わぬ。

この案件がうまく進まない理由は簡単であった。ディレクションをする人間と、システムを組む人間、そして Kashi.への期待値とこちらが出来ることの認識の齟齬が大きすぎるのである。Kashi. は元々「HTML と CSS を使って、稼働しているシステムに見た目としてのデザインをつけてほしい」という依頼で仕事を請けた。だから見積も相応である。然るに、話を掘り下げてみれば、ディレクションはユーザービリティやシステムそのものの設計も含めたデザインを要求し、エンジニアたちは、jQuery やら、AJAX やらのプログラミングで DB とのやり取りなども含めたコーディングを期待していたようだ。

普通に考えてもらいたい。提示した予算をいくらかとここでは書かないが、普通とてもそこまでをまかなえる金額ではないだろう。そして、DB とのやり取りなどシステムの基幹に関わるような部分まで一介のデザイナーが関われるはずもないだろう。そして何より驚いたのは、社内でディレクターとエンジニアの間で、未だに実現したいことについてのギャップや認識の違いがあったことだ。エンジニアたちは自分たちの作りやすいように作る。ディレクターは伝わっていると思い込む。こんな状態でこちらがどこまでやれるというのか…。

正直不安でならない。しかし請け負ってしまった以上、やるしかない。とにかくこちらが出来ることはデザインと、データが格納される構造の骨組みを HTML で組めるところまでだ、実際に出力される部分はそちらできちんと制御してくれと念を押す。出来ないモノはできないのである。これで曖昧なまま迂闊に引き受けては双方ともにアンハッピーだ。多少気まずさは残るかもしれないが、出来ないことをきちんと出来ないと伝えることも仕事だ。おかげでなんとか作業の目処もたった。実際には非常に困難が残りそうだが、なんとかやるしかない。

こうした案件を抱えたときの不安感というのはものすごく、逃げ出したくなる。地震や災害などで会社が潰れて案件が流れないかとまで思ったりする。しかし、20 年も仕事をしていると、こういうことは何度もあった。そしてその都度乗り切ってきたではないか。今回もきっと乗り切れる。そうした思いと自信だけを武器に、なんとか自分を奮い立たせてみた。正直どうなるかわからないが、なんとか頑張ってみたいと思う次第だ。単なる決意表明であり、オチもなく失礼。

1/10 (MON) Coming of Age Day

成人式である。コンビニに行く途中晴れ着を着た若者を何人も見かけた。今も昔も、自宅の前で撮影するという風習は変わらないようで何よりだが、その数は年々減少し、今年はたった 124 万人だそうな。Kashi. は 1972 年生まれだが、70 年は 246 万人だそうだから、ほぼ半分。総人口比では 0.97% と初の 1% 割れだそうで、いよいよ高齢化社会がリアルなものとなってきた。

高齢化社会ということで将来の年金などの不安があるだろうが、今年の新成人たちはぜひ若いうちに最低 3 人くらいは子どもを作るべきだ。今は子どもを作るのに経済的な不安があって作らないということになっているが、子どもなんて貧乏なら貧乏でなんとでも育てられるのだ。Kashi. の知り合いなんぞは子どもが出来たときアルバイト生活であったが、子どもはすくすくと育っている。Kashi. だって、長男長女が生まれたときはかっつかつの生活であったし、女房もごく短期間ではあるがパートに出たりして、それでもなんとかなってしまった。

逆に貧乏は若い間なら耐えられるのである。家だってさっさと買ってしまった方がいい。今は頭金ゼロでも買える物件ばかりだ (オススメしているわけではない。これはこれでリスクがあるから、可能な限り 3 割の頭金は用意するべきだ。そうすれば支払いが破綻したとしても、家がないのに残ったローンを払うようなハメにはならない)。例えば 23 歳くらいで結婚、新居購入とすれば、35 年フルフルでローンを組んだとしても、まだ定年前の 58 歳だ。賃貸で 10 万を超えるような家賃を払わなくとも、ローンで月 6 万円くらいなら共働きすれば余裕であろう。仮に将来の仕事に不安があるとしても、アルバイトしたとしても十分やっていける。もちろん無駄遣いは出来ないかも知れないが、家計で一番かかるのはやはり食費であるから、エンゲル係数を下げるようにすれば良い。

エンゲル係数を下げる方法は、もちろん料理を手作りして工夫を凝らすことである。出来合いのものを買うことほど高くつくものはない。なに、安いものも多い?閉店間際なら割引が入る?なるほど、それはそれで知恵であろう。しかし、そういうものを食っていると気持ちが侘びしくなってくるのである。手作りの最大のメリットは安さではない。自分がこれから慣れ親しんでいく新家庭の味を作り出せ、しかも創意工夫でいくらでも節約できる。自分好みの味で作るわけだから、素材が安くても飽きない。安物の出来合い総菜というのは、結局値段なりの味であり、要は美味しくない。非常にストレスが溜まるのである。若い間は美味しいと感じるかもしれないが、加齢とともにそうした味が平面的で実に味気なく感じるようになるであろう。結局万人が食べられるように作られているものと、奥さんが飽きないようにとカスタマイズした味は雲泥の差があるのだ。

そうやって食費を節約していき、子どもが小さいうちに出来る限り貯蓄をしておく。何故なら小学生にもなると、イレギュラーな出費が結構あるのだ。習い事のひとつくらいはさせてやりたい。フイの病気などもあろう。医療費はなるべくかけぬほうが良いが、それでも、やれ転んで頭を打っただの、骨をどうこうしただのという事態はあるものだ。生命保険も安くてよいから入っておくのは当然で、経済的に余裕が出てきたら内容を見直せば良い。

さて、そうして子どもをたくさん産んでおくとどうなるか。老後が安心なのである。直接実子たちが面倒をみてくれる可能性は、その数が多い分グンと高くなる。多い兄弟は将来に多様性を産むし、中にはトンビから生まれた鷹も出てくるかもしれぬ。その時までにやっておくこととして、子どもには最大限の愛情を注ぎ、手本を見せて尊敬を勝ち取り、言うことを聞かなければブンナグッテ畏怖の念を植え付けておくのが正しかろう。そうすれば、子どもは大きくなっても親の面倒を見るのは当たり前という考えを持ってくれる。こうなったら介護が必要になったときにも安心できるというものだ。介護をナメてはいけない。ハッキリ言って、するほうもされるほうもめちゃめちゃ大変だ。連れ合いがいるうちはまだいいかもしれないが、介護疲れで先立ってしまいでもしたら、残された子どもが一人だったりすると、その負担は増大する。しかし多産で兄弟が多ければ、負担を軽減しあえる。分散管理であり、インターネットのリスク管理と同じだ。一極集中するよりも、バックアップがあると思えるほうが当事者たちの気苦労が大幅に少なくなる。

さらに子どもが多いと言うことは、自分たちの世代に比べて、年金を支払ってくれる世代が数倍いるということになる。70 年代組の Kashi. 世代が大変なのは、同世代が多いのに、年金受給年齢になる頃には支払ってくれる世代がいないからなのである。生まれたときから競争率が高く、バブルは味わう前にはじけ、あとはその尻ぬぐいで十数年。こんなに損な世代はないのだ。

しかし、新成人の諸君、君らは大変にラッキーなのである。就職氷河期などと言われているが、それは昔から言われていてあんまり変わらない。不況ゆえに即戦力を求められているのは事実だが、そういう時だからこそ体力があって、企業の平均年齢を下げてくれる若い世代は、本当はどこの会社も欲しいはずなのである。何故なら、それが将来自分たちの給料を支えてくれることにもなるからだ。だからこそ実力ある新人が欲しいと思う。芸は身を助けるもので、何か秀でたものが技術でも根性でもあるならば企業はちゃんと見てくれる。そしてそういうものを見てくれる質の高い企業への就職をオススメする。既に尊い労働についている向きもあると思うが、20 歳であれば、まだ大学卒業までには 2 年ある。この 2 年だけ頑張れば、将来に間違いなくつながる。若いうちに遊びたくなる気持ちは大変よくわかるが、実は社会人になっても遊ぶ内容はそーんなに大差があるものはなく、しかも金があるからもっと楽しいのだ。しかし勉強だけは若いうちしか出来ない。これは本当で 30 も間近になってくると「アレ?俺何しようとしてたっけ」なんてことになったり、40 の手習いとして何か新しいことをしようと思っても、分厚いテキストを見ただけで目眩がし、それより明日早いしなァ、今日はもう寝るか…となってしまう。イヤなことに対しての徹夜は本当にできなくなるし、洗顔して顔をあげると鏡の中に親父がいたりするのである。

若いうちに情熱を傾け、直向きにこなしたことというのは絶対に忘れない。そして一生のものとなる。享楽への誘惑を押さえ込むことができると、それは自信にもなる。社会は思っているよりヌルくない。なんでこんな理不尽な目にあわにゃならんのだと思うことだらけで、マジムカツクのである。そうしたことに耐えられるために、自分を磨き、家族への力の礎を築けるのは大人へのセレモニーを済ませた今しかないのだ。家庭も支えられないロクデナシのアラフォーからのメッセージは逆に説得力もあろう。無限の可能性を持つ新成人たち、おめでとう。君たちは今日から大人だ。良き家庭と仕事に出会えることを祈っている。で、こちらの世代のためにも盛大に働いて年金を納めてください、お願いします。ホント。

1/9 (SUN)

毎年恒例の中野サンプラザのハロー☆プロジェクト正月コンサート最終日の今日、現モーニング娘。リーダー、高橋愛の卒業が発表となった。twitter でもつぶやいてみたが、なんとも寂しい気分である。

Kashi. にとって、モーニング娘。は極めて個人的な理由で特別な思いがあった。当時あれだけ世間を騒がせていたグループだし、デビューに至る経緯も特異であったから、当然テレビでは眺めていた。安倍なつみはずっと可愛いと思いながら見ていたし、LOVE マシーンはもちろん、派生ユニットの「たんぽぽ」の楽曲の良さに惹かれ、「初代プッチモニ」は後藤真希、市井紗耶香、保田圭とショートカット三連発ということで大いに食指を刺激され、「ちょこっと LOVE」を当時の同僚 (全員男である) で大合唱していたことも懐かしい。

しかし決定的に好きになったのは 2001 年に放送された「めちゃ× 2 イケてるッ!」内の企画「私立岡村女史高等学校。」での岡村隆史とメンバーの特番がきっかけであった。アイドルとしてのかわいさだけでなく、バラエティにも通用する面白さ (特に矢口真里は秀逸であった) をそこで認識できたからである。もっともこれは岡村の秀逸なメンバーいじりがあったとも言えるが、それにしっかり応えることができたのは大したものだ。今の AKB 48 にはこのあたりが難しかろう (秋元才加という子はなかなかだが、何故矢口といいバラエティで力量を発揮する子は男スキャンダルを起こすのか…)。

そしてもうひとつ。当時 Kashi. は気になる女の子がおり、その子が「わたし、モー娘。見てると涙が出てきちゃって」などと言ったのである。好きな人のものを好きになりたいというのは老若男女問わない感覚だと思うが、その一言は Kashi. の情熱に火を付けるものとなり、以後その子が離れ無関係となっても Kashi. の生来のヲタク気質がいかんなく発揮される結果となって、写真集、テレビ録画、DVD/CD 購入、グッズ、そして情報の収集が日常茶飯事となってしまったのだ。まさか数年後に再会したその子が「まだ、なっち好きなの!?」などと言うとは思わず、真意を問いただしたところ「…なんか、彼女らは一生懸命なのに、いろんなものが残念すぎて気の毒で泣けてた」などと衝撃的なことを言われて、心底ゲンナリしたのは余談である。あれほどガッカリした告白を聞いたのは生まれて初めてだ。彼女は自分の言葉がいかに人を惑わせるかをあまり分かっていない子であったのだ…。

それはまあともかく、そんな理由でずっと応援してきたモーニング娘。だが、個人的にはやはり 4 期までが好きである。さらに絞るなら 2 期までだ。それもできればオリジナル エイトと呼ばれる福田明日香在席時までがいい。レコードで言うと、4th シングル "Memory 青春の光の" までとなる。5th シングル "ふるさと" も良いのだが、4th までは福田明日香の歌唱力と安倍なつみの華、2 期メンバー陣の完璧なコーラスが心地よすぎるのである。2 期メンバーはうたばん! で石橋がいじりはじめるまでは地味で地味で仕方なかったが、女性ヴォーカル グループとしての声質はピカイチであった (参考『真夏の光線』映画:ピンチランナー メイキング映像)。

その後は石黒彩の卒業ソングともなった LOVE マシーンの大ヒットを受けてつんく♂の暴走が始まったり、なっちの押尾学プレステ事件などをきっかけに、衰退の一途を辿るわけだが、それでも辻加護の強烈なコンビのおかげで国民的アイドルとしてのブレイクは続く。その余熱が残る 5 期メンバー加入時、すでにアイドルとしての輝きが絶頂だった他メンバーに比べ、あまりにも垢抜けない 4 人は一気に一般人の興味を失った。しかし今でも顔立ちがほとんど変わらない高橋愛は、それでも印象に残ったようで、今でもモー娘。を見せて「誰がわかる?」と尋ねれば、高橋だけはわかるという人も多い。ガキさんこと新垣里沙はダントツに田舎っぽかったせいで変に悪目立ちし、彼女もまた覚えている人がいるようだ。だが、同期の小川麻琴、紺野あさ美は活動も地味だったから、パッと思い出せる人は少ないのではないだろうか。こんこんはテレ東のアナウンサーとして今春から活躍予定だから、また違う意味で目立ちそうだが…。

その高橋愛も加入は 2001 年 8 月 26 日。卒業予定の今秋には丸 10 年以上の在籍となり、もちろんこれは最長在席期間だ。それまでは飯田圭織の 7 年半が最長だったが、それをゆうに上回る記録である。在席期間に比べて知名度が高いのはダントツで後藤真希で、意外にも 3 年だけだ。当時のブレイクぶりがよくわかる。モーニング娘。のマザーシップ、安倍なつみでも 6 年半ほどだ。これらはあまりにも偉大な先輩たちであり、事あるごとに比較された 5 期以降のメンバーは辛い時期もあっただろう。かつてはミリオンヒットを飛ばしたグループにも関わらず、自分たちが在席してからは売上は下がるばかりであり、5 万枚売れたらヒットのレベルである。もっとも当時と今では音楽業界の動勢がまったく違うから比較するのも酷かもしれないが…。

かつて矢口が不祥事によって急遽リーダーに据えられた吉澤ひとみは本当に頑張った。初代リーダー中澤裕子在席時代の薫陶を受けた最後のメンバーとして、残りのメンバーを引っ張り、低迷しながらも 31st シングル "歩いてる" で、やっとオリコン 1 位を獲得。33rd シングル "悲しみトワイライト" で、有終の美を終える。その後藤本美貴が矢口同様、男性スキャンダルで極短期のリーダーから脱退し、よっすぃと同じような役回りでいきなりリーダーを務めることになった高橋愛。黄金期と呼ばれる強烈な OG たちと比較されて頼りないと言われながら「今のわたしたちを見てもらいたい」と強い口調で決意を表した高橋愛。デビュー当時はひどい福井訛りがまったく抜けず、しゃべりも零点、「テッテケテッテケ何言ってるかわからねえよ!」とうたばん! で酷評されたのも今は昔。石川梨華と中澤裕子という礼儀に厳しい先輩二人に見込まれ、グループでは何が大切なのかを教えられるうちに、気づけばヴォーカリストとしてはいつの間にか歴代メンバーはおろか、ハロプロ内でも 1、2 を争う巧さとなり、松浦亜弥も認めるところとなった。女性としての魅力も成熟し、今が一番輝いている時ではなかろうか。これからはソロとして、しっとりとした大人の女性の魅力を磨いて欲しい。そしてできればもうつんく♂の呪縛からは逃れ、実力ある作詞家と作曲家による曲を歌い上げていってもらいたいものだ。

…正直、7 期の久住小春はもう卒業してしまったからさておくとして、8 期、9 期にはまったく期待していない。6 期は好きだが、亀井絵里がアトピー治療で休養に入った今、田中れいなと道重さゆみだけでは歯の落ちた櫛のような感じだ。一人残る最古参、ガキさんも次期リーダーが確定しつつも、リーダーとしての資質があるかと問われたら不安が残る。彼女はムードメーカーであり、サブとしては素晴らしい保田圭と同じ立ち位置がよく収まるのだ。おそらくは破天荒な 6 期二人と若すぎる 8 期以降を牽引することは難しかろう。8、9 期の子らになんら責任があるわけではない。しかし、8 期メンバーの光井愛佳はすでに 3 年以上の在籍期間にも関わらず目立った功績も残せていないし、そもそもファンも加入に否定的だった。中国人留学生として在席していたジュンジュン、リンリンはキャラクタとしては面白かったが、やはり国籍や人種の違和感はいかんともしがたいし、一般のファンも「どういうこと?」と疑問符が浮かぶ存在だった。今、9 期には 4 人が加入決定している。譜久村聖、生田衣梨奈、鞘師里保、鈴木香音。彼女たちは自分たちが生まれたばかり、もしくは生まれる前に結成されたグループに加入することで、何を目指していくのだろうか。

繰り返すが、残存メンバーに異存があるわけではない。しかし、もう潮時だろう。10 年一昔、潮目が変わったというところか。30 代最後の歳に、長年追い続けてきたモーニング娘。のファンを卒業となりそうだ。図らずも先の日記で、今年はたくさんありがとうと言える年にしたいと書いた。転機とするべき、大事な一年でもある。2011 年、ひとつの区切りとなるであろう。高橋愛卒業コンサートは参戦してみたいと思う。それで最後だ。感謝の一言はその時までとっておきたい。

1/8 (SAT)

twitter では先に書いておいたが、先日自分へのプレゼントということでテレビを買った。なんと我が家では初めての地デジテレビである。我が家にはこれまで 3 台のブラウン管テレビがあり、2 つは 14 インチ、ソニー製と三菱製だ。もうひとつはリビングに置いてあるメインの 32 インチでシャープ製である。これらはみなよく働いてくれ、まったく壊れる気配がない。メインテレビは当時の財力で購入できる中で一番良い物を吟味した。プログレッシブでないことは返すがえすも残念だが、当時はあまりに高価であったからいたしかたもない。4:3 でも 16:9 でも見れるから、地デジチューナー搭載の HDD レコーダーを繋ぐことで地デジも問題無く視聴できる。画質は大変上等で、事 DVD 視聴に限って言えば今のどんな液晶よりも目に優しく、そして綺麗であろう。今年の 7 月ギリギリに地デジチューナーを購入し、マルチ リモコンで対応すれば問題無い。地デジ チューナーは極力デコード処理の速いものを希望しているがどうなることやら。REGZA チューナーは外付けの HDD に録画ができるようだが、東芝であるから対象外だ。東芝社員の方には申し訳ないが、御社の製品は Kashi. と甚だ相性が悪いようである。

さて、今回購入したのはドン・キホーテでのみ購入できる nexxion TV1310DV SKELETON というやつである。大きさは 13 インチであり、自室用としてはまったく申し分ない。nexxion というのは聞いたこともないが、まあよくある海外のノーブランド メーカーと提携して専属販売にしているといったところだろうか。

さて、そんなテレビであるから、性能が悪いかというとそんなことがない。さすがにコントラスト比は 600:1 と少々低めだし、応答速度は 16ms、視野角もちょいと不満が残る。しかし、視野角は見る角度が固定され、スポーツ観戦などにちっとも興味のない Kashi. にとっては十分というわけ (というか、実際全然気にならないレベルであった)。さすがにスピーカーはプアな感があるが、5.1ch で臨場感溢れるような環境を欲するのであれば、そもそもこのテレビは選択肢に上らない。やはり十分なのである。

さてこのテレビの良いところはそういうことではない。液晶はスペック的には物足りないものの、実際に肉眼視してみると値段の割に満足度の高いものとなっている。チューニングがよいのか、安物によくある滲んだ感じはあるのだが、顔を近づけてよくみればそう思えるといったレベル。値段は 19,000 円なのでものすごく安いということもないのだが、エコポイント対象であることと、DVD プレイヤー内蔵という部分をさっぴくと、ポータブル DVD プレイヤーより遥かに安い。

この DVD プレイヤー内蔵というのは結構ありがたい。DVD に関していえば RAM 以外のすべてに対応し、CPRM も OK である。倍速再生は x2、x4、x8、x20 と使い勝手が良い。リモコンはちょっと感度が悪く、きっちり受光口に向けねばならないのは残念だが、なんとこのプレイヤー、リージョン フリーなのだ。これで数年前ハワイで購入した、海外版「千と千尋の神隠し (SPIRITER AWAY)」がストレスなく見られる。Kashi. はストーリーはともかく、この作品の世界観が好きなのだが、なにせ日本発売版は当時話題になったように、色が赤いシャア専用仕様だ。これをジブリはレトロな世界観を出すためだと言い訳していたが、作品とは関係ないトトロのクレジット画面まで赤いというのは無理があるし、なにより SPIRITED AWAY では、まったくその赤みがないのだ。そしてちゃんと日本語セリフも収録されているし、英語のセリフはそれはそれで味のある仕上がりになっているのであった。

もう少し。このテレビ、無駄に接続端子が充実している。一般的なピンプラグ入力はもちろん、S 映像、D5、HDMI に加えて、D-Sub 15pin までついている。使おうと思えば PC のサブモニタとして使えるのだ。これらの端子はすべて独立しており、入力ボタンで切り替えて使える。…が、音声入力はピンプラグの 1 系統しかない。まあこのあたりが帯に短しといったところなのだが、そもそもこのテレビに外部機器繋げることはないだろうから、これでいいのかもしれない。考えるとして、せいぜいゲーム機くらいだろうか。なんにしても選択肢が多いのは良いことだ。

またこいつは非常に座りが良い。スタンドを畳んだ状態でもしっかり直立する。デザインもボクシーで、スケルトンと良いながらスケスケではない程度に落ち着いた感じだ。背面がフラットで壁掛けにも対応している。そのためか約 2kg と軽量で持ち手もついている。DVD 再生にはズーム機能と A-B リピートまで付いている。音楽と違って A-B リピートを活用することは少なそうだが、音楽 DVD などでコピーする時には便利かもしれない。電源投入から映像表示までは約 12 秒でプログレス バーが表示される。これはエコ モード時で、オフにすれば約 5 秒に短縮される。ただし、待機電力は 0.6W から 5W になってしまう。起動が 1 秒になるとかならともかく、半分程度であればエコ モードは有効にしておいたほうが良いだろう。なおオフタイマーや 4:3 モードへの切り替えも可能だ。

とまあ、なかなかに当たりの製品なのだが、唯一非常に残念なのは DVD もしくはテレビ視聴が同居していないことだ。せっかく DVD のレジューム再生も対応しているのに、これは DVD モードになっている時に限られ、一旦 DVD を見るのを止めて、ちょっとテレビを…といったことをすると、ニーっと DVD がイジェクトされてしまう。せめてドライブに挿入されっぱなしの状態であれば面倒がなかったのだが、熱による劣化も考えたら致し方ないところか。ちなみに 1 週間分の EPG に対応し、省エネ達成率は 146% で★ 5 つとなっている。年間で 30kWh …、まあこんなものではなかろうか。

ということで、全体的には評価の高い製品だ。今後は連続使用してどこまで耐久性があるかといったエージング レポートになるであろうが、ちょっと寝室に一台テレビが欲しいな…という向きにはオススメなのだった。

1/7 (FRI)

昨日は39 歳の誕生日だった。うーむ、39 か。所謂アラフォーだが、来るべき 40 代に向けての準備の歳でもある。たくさんの人にありがとうと言えるような年になるよう心がけよう。サンキューだけに。

幸いにして今年は幸先良い感じである。友人 3 人、父親、妹とその息子からはメールや電話で、そして「○○です。おめでとうございます」と娘と息子からも一言ずつ電話ももらった。もっとも、それを言ってこちらがお礼を言いかけている間に、何も言わずに切れてしまい、その後再び掛かってくることもなかったが…。電話のマナー、教えたんだけどなあ。よその家へもこんな雑な切り方してるんじゃなければいいけれど…まあともかくありがたい。と思うことにしよう。

Photo 深夜 1:00、例によって一人で馴染みの Fork Bar に呑みに行く。そこで 39 になったことを話のネタにしてみると、隣に座っていた常連の女性が「じゃああたしがシャンパン開けてあげる!」と豪気なことを申し出てくれ、マスターも商売っ気たっぷりに抜栓し、店にいた常連全員に振る舞うと happy birthday の大合唱。待ってくれ、こんなシチュエーションは成人してからは記憶にないぞ。いや、それはそれで寂しい話だし、さすがになにかしらあったろうけれど、少なくともここ数年では無かったはずだ。これは照れくさい。わーパチパチパチとお客さん全員とグラスを鳴らし、ありがたーく頂戴する。ちょいと苦みのある味で、なかなかに美味しい。

もちろんこうしたことがお祭り騒ぎ的なというか、酒の肴であることは理解しつつ、それでも祝ってもらえるというのは嬉しい。10 年くらい前は今更誕生日でもないやね…なんて言っていた記憶もあるが、三十代最後となると、それはそれで感慨みたいなものも出てくるというものだ。

ところで女房からはやはりなにもない。状況が状況なだけに当然なのかもしれないが、やはり侘しさみたいなものはある。二人の関係がギクシャクしていても、慶事にメールを送るくらいのことは出来そうなものだ。心からの祝辞でなくとも一言だっていい。しかし、それがないというのはもう向こうに修復の意志がなく、拒絶体制に入っているということだろう。

我が家は全員の誕生日が 1 月に集中しており、24 日は娘、その前日 23 日は女房の誕生日である。ともかくこちらからは贈り物とメッセージを用意しよう。関係を戻したいという感じでもないし、さりとてどうでもいいということでもない。行動原理は自分でもよくわからないが、やっぱり誕生日なのだから、せめて何かを届けたいと思う。それだけが明瞭な今の心境だ。

誕生日はひとつの節目であり、死と再生のチャンスでもある。生来の性格は変えられないが、ほんの少しだけ相手を思いやったり、自分だけの思いを押しつけるようなことをしない努力を心がければ、例え結果は同じでも得られる充足感は違うはずだ。誕生日おめでとう、自分。潰れてしまわないよう頑張れ。

1/2 (SUN)

息子の誕生日。電話で 1 分 だけ話しておめでとうと伝えて終わる。いつも家族の誕生日には小さなケーキを買って、みんなでお祝いをして写真を撮っていたのに。

9 年前の今日、明け方に君は生まれたんだよ。晴れた日で、お父さんは真夜中に車の中で仮眠しようと思って横になったけど眠れずに、サンルーフから星空を眺めて君と会えるのを待っていたのです。お父さんもお母さんも、お姉ちゃんの時と同じように、お腹の中にいるのは男の子なのか女の子なのかを先生に聞かなかったから、男の子ですよと看護師さんに言われたときは、とても嬉しかったのです。お姉ちゃんよりはちょっと小さめの 2818 グラム。すぐにお母さんのおっぱいを飲んで眠ってしまった顔は写真にも撮ったし、今でもよく覚えています。

赤ちゃんの頃の君は、本当に本当によく泣いてばかりで、お父さんとお母さんは本当に困ったものです。もう何をやっても泣き止んでくれなくて、お母さんと喧嘩になりかけたことがあるくらい。お姉ちゃんと違って、声がものすごく大きくて怒っているみたいに泣くから、何か体に痛いところがあるんじゃないかと思ったほどでした。

それでもすくすくと育つうちに、いつしか疳の虫はどこかに消えて、それからは元気いっぱいな男の子らしい男の子になってくれました。負けず嫌いで頑固者で見栄っ張り。友達と一緒のときには転んでも決して泣かず、「オレ」なんて自分のことを呼ぶくせに、家の中ではものすごい甘ったれで、一人称も「ぼく」とか愛称だったり、すぐにお母さんに甘えたり、叱られてはピーピー泣いていました。お父さん、お母さん、お姉ちゃん、みんながそうであるように、君も小さなぬいぐるみが大好きで、特に二頭身のスティッチのぬいぐるみが大のお気に入りで、もう何年も一緒に寝ていますね。むにゃむにゃと寝ぼけている時にもそのぬいぐるみをあげると、ぎゅっと抱っこしてまた眠ってしまうのがとてもおかしかった。

君は成長するにつれて、水泳を習ったり、少年野球のチームに入ってキャッチャーをこなすまでになったね。我が家では一番多才で、幼稚園の頃からリズム感があってドラムや太鼓が上手だったし、子どもらしい優しい詩や可愛らしい絵を描くのがとても上手でした。お父さんは君が描いた絵がとても気にいったので、壁にかけられる写真立てにその絵を入れているほどです。決して上手ではないけれど、とても味のある絵で、お父さんはそれが大好きなのです。

お父さんは仕事ばかりしていたせいで、ずっと君と遊べなくて、お出かけも学校の行事もお母さんに任せてばかり。お父さんは家族のためにと思って頑張って寝ないで働いたりしていたけれど、どこかでそれを言い訳にしてたまの休みの日には眠ってばかりでした。そうしたら、いつしかお姉ちゃんも君も、あんまりお父さんとお話をしなくなってしまった。

もう君は 9 歳。今年の春には 4 年生。そのうち、父親と遊ぶこともなくなる年齢。お父さんは今でも君が言った「お父さんと山登りがしたい」というお願いを、無理をしてでもいいから叶えてあげておけば良かったとずっとずっと思っています。お母さんが作ってくれたお弁当を持って、二人で頂上で食べれたらどんなに美味しかっただろうなとか、山の歩き方やルール、流れる雲や咲く花の名前を教えてあげられたらどんなに楽しかったろうと。二人で一緒に作ったガンダムのプラモデル、君は何故か工具を使うのはあんまり上手じゃなくて、お父さんはもっとたくさんのことを教えてあげたかった。ニッパーの持ち方、ナイフの研ぎ方、半田ごての扱い方、塗装の仕方。自転車の整備、ギターの弾き方、ケンカのやり方。そして酒の飲み方。

教え足りないことばかり。いつか教えてあげられる日がくればいいのだけれど。そうなれるように、お父さんとお母さんは今お話をしています。せめて、君とお姉ちゃんのために何ができるのかと。大の男がダラシナイと思わないでおくれ。傍から見れば単純な問題でも、今のお父さんにはロジックではない何かや、どうしても人に言えない思いが邪魔をして、錯綜するばかりなのです。

1/1 (SAT) 2011 New Year's Day

2011 年である。とにかく去年は受難の年であった。人間関係のこじれというのが、こんなにもあらゆる面に影響を及ぼし、また自身がネガティブになってしまうことに驚きながら、足掻けば足掻くほどに泥沼化してしまい、どうにもならなかった。

当然ながら新年を迎えたからといって、それが劇的に好転するというはずもなく、今年ははじめて大晦日から実家に戻り、親父と安スナックでデュエットなんぞをし、地元ヤクザに拍手をもらっているうちに新年を迎えるという有様だった。父親と新年を迎えることが悪いとは思わないが、そこに至る経緯が家庭不和が原因だとすれば、それはやはり情けない。

情けないとは思うが、どうにもならぬ。少なくとも夫婦が互いにパートナーに対して信頼関係を欠いているような状態で「新年おめでとう」と祝う気持ちを繕えるほど起用ではなかった。そこを無理にでも押して、一家の長として新たな気持ちで挨拶をし、屠蘇を配って改めて絆を深めるべきだったのかもしれない。が、結局そうはできなかった。お正月に父親が存在しているにもかかわらず、母子 3 人で新年を迎え、お年玉を手渡されることもないことに子ども達はさぞ呆れていることであろう。申し訳なさで胸がいっぱいになるばかりで、正月番組から流れる笑い声も虚しく響く。

昨年は家族との不和の他にも、昨年末クリスマスの日記でも記したように、親しい (と、Kashi. 自身は思っていた) 友人との不和もあった。年末、偶然にも出会えた時、すでにこちらにだいぶ酒が入っていたというのも不運だった。言い訳はしたくないが、それでも荒れた精神状態で接してしまったことは痛恨である。つい、感情が先に立ち、不平をぶつけ、罵りを浴びせた時、氏はさぞや不愉快だったろう。もっともこちらも不愉快だったのだから、そこはお互い様というやつかもしれないが、我儘を承知で書けば、せめて一言なり釈明が欲しかった。だが、それも叶わず、手を伸ばせば届くような距離にありながら、お互い目を合わすこともなく、もう言葉を交わすことはなかった。

キャリアの通信規制にもめげず、幾人かの友人たちとあけおめメールをやり取りしている中、氏からのメールも来るのではないかと一縷の期待をしていた。が、やはり世の中そんなに甘くはない。まあ当然であろうとも思える。ならばもういっそ関係は清算したほうが良いと思い、一方的に決別のメールを送る。正直、もう疲れたという気持ちでいっぱいであった。

Kashi. の人生に強く、深く影響を与え、数少ない尊敬できる存在であった。それと同時に、いつも忘れた頃に風のように現われては、争乱の種を蒔いて去っていく存在でもあった。強いカリスマ性を持つが故に周囲への影響が大きく、しかし本人はあまりそれを意識しないところが羨ましくも、Kashi. のような悲観主義者には人騒がせな面を持つ人だった。お互いの生活が忙しく、もう何年もの付き合いにも関わらず、会うことはおろか、メールを交わすことも少ないような時期が多くとも Kashi. の中では、いつも心のどこかにその存在があり、ライバルとしても忘れることはなかった。

だが、もうそれも終わりである。氏にとって、今の状態の Kashi. は心底鬱陶しく、嫌悪の対象であろう。自分が逆の立場であれば同じように感じると思えるのだから、そこは間違いないように思う。これ以上堕ちることもない。

新年である。とにかく去年は受難の年であった。あったが、すべてそれは自分の不徳なのであろう。一生懸命…など、結果が出ないのであれば、ましてやそれが最悪の形であれば、なんの意味もない。女房、子ども達、友人、そして Kashi. が気づいていないだけで不愉快にさせてきた全ての人々。

今年はせめてそうした人々に、色々な意味で贖罪する年にしたい。過ぎた時が戻ることはないのだから、結果は結果として受け止め、悲しさや辛さ、孤独に立ち向かえる強さを持ちたい。不和不仲になってしまった人々。Kashi. だって言いたいことや、分かって欲しいことはたくさんあるけれど、求めすぎていたのだろうし、そうすることが自分の平穏を乱すのであれば、それはもう止めにしたい。

胸を張って、俺はあなたたちが大好きだったと言えるよう、大地にしっかり根を張り、風雨に揺らぐことなく、前を見据えながら一歩一歩、歩いていくつもりだ。今はどうしてもぼやけてしまうけれど、大好きだった人たちが、かつて自分に向けてくれた笑顔を思い出せるように。

log

※過去ログは追々体裁を整えてから公開していきます。

2010

  • Jan
  • Feb
  • Mar
  • Apr
  • May
  • Jun
  • Jul
  • Aug
  • Sep
  • Oct
  • Nov
  • Dec

2009

  • Jan
  • Feb
  • Mar
  • Apr
  • May
  • Jun
  • Jul
  • Aug
  • Sep
  • Oct
  • Nov
  • Dec

2008

  • Jan
  • Feb
  • Mar
  • Apr
  • May
  • Jun
  • Jul
  • Aug
  • Sep
  • Oct
  • Nov
  • Dec

2007

  • Jan
  • Feb
  • Mar
  • Apr
  • May
  • Jun
  • Jul
  • Aug
  • Sep
  • Oct
  • Nov
  • Dec

2006

  • Jan
  • Feb
  • Mar
  • Apr
  • May
  • Jun
  • Jul
  • Aug
  • Sep
  • Oct
  • Nov
  • Dec

2005

  • Jan
  • Feb
  • Mar
  • Apr
  • May
  • Jun
  • Jul
  • Aug
  • Sep
  • Oct
  • Nov
  • Dec

2004

  • Jan
  • Feb
  • Mar
  • Apr
  • May
  • Jun
  • Jul
  • Aug
  • Sep
  • Oct
  • Nov
  • Dec

2003

  • Jan
  • Feb
  • Mar
  • Apr
  • May
  • Jun
  • Jul
  • Aug
  • Sep
  • Oct
  • Nov
  • Dec

2002

  • Jan
  • Feb
  • Mar
  • Apr
  • May
  • Jun
  • Jul
  • Aug
  • Sep
  • Oct
  • Nov
  • Dec

2001

  • Jan
  • Feb
  • Mar
  • Apr
  • May
  • Jun
  • Jul
  • Aug
  • Sep
  • Oct
  • Nov
  • Dec

2000

  • Jan
  • Feb
  • Mar
  • Apr
  • May
  • Jun
  • Jul
  • Aug
  • Sep
  • Oct
  • Nov
  • Dec

1999

  • Jan
  • Feb
  • Mar
  • Apr
  • May
  • Jun
  • Jul
  • Aug
  • Sep
  • Oct
  • Nov
  • Dec